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『ハルとナツ』より不思議な〃再会〃=1通の手紙が結ぶ地球の反対側の家族=約60年の歳月を超えて=予期せぬ感動の出会い

2007年移民特集

2007年6月27日付け

 熊本県にある古い家で、亡き母の荷物を整理していた息子が、大事にしまわれた宝箱の中から、五十九年前にブラジルから届いた一通の手紙を見つけた。「ブラジルに渡った親類に会えるかもしれない」。昨年五月、その手紙がきっかけとなって家族が来伯した。地球の反対側、ようやく辿りついたミナス州ベロ・オリゾンテにある親戚の仏壇の前には、自身の家の玄関先で撮られた、見覚えのある写真が飾られていた…。ここは遠いどこかではない。私の家族の家なんだ――。まるでNHKドラマ『ハツとナツ―届かなかった手紙―』のような、家族の絆を感じさせる驚きの出会いの連続だった。遠路やってきた夫婦らは、百人近い新しい家族をいっぺんに見つけて喜び、知らなかったお互いの家族の歴史に耳をかたむけ、感動のうちに失っていた空白の時間を埋めた。

亡き母の遺品を整理中に=宝箱にはブラジルからの書簡

 そろそろ、死んだ母の荷物を整理しよう――。〃再会〃のきっかけは、そんなどこの家族にもある、ささいな一コマから始まった。
 母親がとても大切にしていた宝箱。その中から出てきた母親宛ての手紙。縦書きの細かな文字で、びっしりと便箋三枚分ある。古びた手紙の日付けは、昭和二十三年(一九四八年)四月十四日。発信元はブラジルだった。
 『おいえさん 実に何年振りかでなつかしい貴女の名前を書いて感慨無量です。思えば弐拾何年振りですね::』
 戦前に移住した親戚からのものだ。大切にしまわれていた手紙を読んで、熊本県在住の斉藤義博さん(78)は思った。「妹が友人を訪ねてブラジルに行くと言っていた。せっかくだ。ついでにこの手紙の宛て先を探してきてもらったらどうだろう」。
 義博さんの連絡は、すぐに妹エツコ・ハリスさん(65)のもとへ。
 アメリカ人のジェリー・ハリスさんと結婚してハワイに住んでいるエツコさん。日本滞在中に親しくしていた日系ブラジル人一家、肥田ミルトンさん(69)らを訪ねて、偶然、ブラジル行きを計画しているところだった。エツコさんは、さっそくミルトンさんの妻、文子さん(57)にメールを送った。
 「Sao Pauloのお宅に着いたら調べたい事が有ります。熊本県人会で人を探してみたい。
 親戚が昔、移民してSao Pauloに落着き。日本敗戦直後いろいろ物資を送ってくれた事を覚えています。古い昔の事ですが、ずっと頭に残っているんです。
 誠一 亀井
  Belo Horizonte(約六十年前の住所です)
 満 亀井
 二人は兄弟かも知れない。一九七〇年の来日の時、横浜港見送った時の写真が有ります。(三十五年前、アルゼンチン丸で)
 母は、内野 イヱ 多分母はイトコドウシなのかも知れません(メールから抜粋)」。
 手紙の送り主である亀井誠一さんと、その兄弟だと思われる亀井満さん。母、斉藤伊江さん(旧姓内野、九六年八十九歳で没)が熊本県出身だったために、エツコさんはとりあえず、県人会に尋ねようと考えた。
 だが、数日のうちに文子さんから驚くべき返答がエツコさんに届いた。「私の知り合いが、亀井満さんの親族だそうです」。肥田一家が日常的に付き合っている東敏(ひがしはやし)さん(83)が、満さんの甥にあたるという。
 エツコさんは、あまりの驚きに「びっくり。涙が止まらず鳥肌が立った」と声を弾ませる。
 「こんな事ってあるんですね!これも私達の運命ともいえるのでしょうか。
 人を捜すのってすごく難しい事と思い、じっくり時間がかかると覚悟していましたので、驚きもひとしおです。本当に有難うございました。とっても楽しみです(メールから抜粋)」。
 六十年前の手紙がもととなり、エツコさんの幼少のころの記憶が少しずつよみがえってくる。
 エツコさんは義博さんに宛てて、「戦後間もなくブラジルの親戚から洋服地や食量等送られて来て、皆でワイワイ喜んだのをおぼえています。忘れてはいけませんよね」。
 そして、「今年はブラジル旅行にかけて長年の念願が叶いそうです。ジェリーさんが一生懸命で、人のルーツにとても興味を持っています。きっと沢山の子孫がいると思います。(中略)親戚がゾロゾロできるかもしれませんね!!」
 一ヵ月後の五月九日、エツコさんは夫のジェリーさんと来伯。ブラジルにいる大家族との〃再会〃が始まった。

57年ぶりの帰国で=先祖の墓抱いて号泣

 亀井家の家系図が日本とブラジルに枝分かれしたのは、実に一九一三年にまでさかのぼる。その年、亀井家次男の満さん、四男のたておさんが、帝国丸で渡伯。続いて二六年、スミさん、誠一さんが続いた。
 たておさんは来伯してまもなく山西家の養子となり、満さんはファゼンダ生活を送ったのち、三〇年にはアマゾンへ。フォード社の開発計画に合わせた移住だったが、そこでの生活は惨憺たるさまで、フォード社の計画が取りやめになったことで撤退。ベロ・オリゾンテに再移転した。
 一方、スミさん、誠一さんは、サンパウロ州ノロエステ線の上塚第二植民地(ゴヤンベー)に入植した。誠一さんは当初ゴヤンベー内アリアンサ区の、アリアンサ小学校で教鞭をとって生計を立てた。リンスに移ったこともあるという。
 同植民地でバス会社を経営しつつ、コーヒー園や運搬業にも手を伸ばしたが廃業。敗戦後、負け組に属し、勝ち負けの混乱をいやがっている誠一さんのところへ、兄、満さんから「ベロ・オリゾンテに来ないか」との言葉。スミさん、誠一さん一家はミナス州都への移動を決めた。
 誠一さんは、伊江さんに宛てた手紙に、戦中から戦後にかけて、またベロ・オリゾンテでの一家の生活を記している。
 「今回の戦争勃発から終戦に至る迄一日として國に居る皆さんの安否を思はぬ日とては無かった。毎日ラジオ東京を聴いては一喜一憂、遂いに終戦の御詔勅に慟哭して殆んど虚脱状態となって約半歳を過ごし、漸やく吾れに帰り従来の職を棄てサンパウロより当ミナス州の首府ベーロ・オリゾンテに移り、毎日運搬自動車を私自身運転して野菜、果物類の移動市設市場行商をやって居る様な次第です。お陰で市場の王様と言われる位になり、多少の余裕も出来る様になった(手紙から抜粋)」。
 家族が力を合わせ苦難を乗り越え、ブラジルでの生活に安定を築いていく。日々の生活に「多少の余裕ができるようになった」ことからと、一家は「慰問の意味で日本で不足して居るという品々を送らう」と決意したのだった。
 また誠一さんは、物資を送る約束とともに、伊江さんに、叔母の面倒を見たり、友人の安否を確認することを願い出ている。
 「僕が一番身近かに御慰めもし御力にもなって上げねばならぬ立場に有りながら、今日迄何一つ御恩返しの事も致して居ないのです。宜々に自責の念にかられて居る。然し遠く離れて居て思ふにまかない。だが幸ひ貴女は近処に住って居るそうだから、今后どうか僕の分迄叔母さん方御夫婦の御面倒を見て上げて下さい(手紙から抜粋)」。
 誠一さんの人柄、家族の絆の強さが推測できる部分だ。
 誠一さんの二女、川野敏江さん(68)は「父が日本に何かを送ると言っていたのを覚えてますけど」と、おぼろげに幼かったころを振り返った。
 日本に物資を送りながらも、ベロ・オリゾンテでの生活も決して楽ではなかったころ。どういうものを、どれだけ送ったのかは定かではない。ただ、戦後の荒廃した日本で、ブラジルから送られてきた物資を受け取ったエツコさんは、その時の喜びを今も鮮明に覚えている。
 「幼い時、六十年前、日本の敗戦後に、誠一さん達から可愛い花柄の洋服の生地が一反送られてきてどの位経ってか、或る晴れた日、真新しいワンピースを見て嬉しさのあまり、家中を跳ね回わり。その後、近所の人達に見てもらいたくて一軒一軒回り、「おばちゃん! おじちゃん!これ みて!」と、大騒ぎし、家に帰った事を思い出します。
 母が、ゆるめに作ってくれたのが正解で、随分大きく成るまで着ていた記憶が有ります」。
 時を経て一九七〇年。満さんは、五十七年ぶりに日本への帰国を果たした。故郷へ戻り、一家の墓参りに向かう。日本で満さん夫妻を迎えたエツコさんは、当時の様子をなつかしそうに振り返った。
 「三十五年前、満さんと後妻さんが我が家にも泊まられ一緒に過ごしました。
 又、熊本の先祖のお墓を抱いて、号泣されたあの姿を見て、私も涙が止まりませんでした。
 今でもはっきり覚えています。
 どんなにか、故郷に気持ちを残されて、日本を後にされた事でしょう。
 その時から、何時にか、私達が再会できる日が来るのではないかと予感が有った様な気がします。実現しそうで嬉しいです」。
 スミさんは再び日本の土を踏むことなく一九六三年に、満さんは帰国後の七六年、誠一さんは八二年に他界している。
 現在、神戸港で再会を誓って別れたであろう移住当初の世代はもういない。手紙を交換し合い、地球半分という距離を超えて互いに支えあった当事者らも時代を終えた。
 約六十年の時を経て、これまで失っていた家族との〃再会〃を計画したのは、二世代目、三世代目だった。

奇妙な既視感に震える=「同じ写真が仏壇に」

 「しばらくぶりです」。初めて会うのに、まるで〃再会〃であるかのように、自然にそんな言葉が口をついて出る――。
 ハリスさん夫妻がブラジルに到着した二〇〇六年五月九日の夜、サンパウロ市にある肥田家の家で、川野敏江さん(68、二世)はエツコさんに会った。
 六十歳をすぎて、はじめて対面した親族。敏江さんは「以前から知り合いだったような親しみがありました。本当に家族だったような感じ。皆もそう言ってました」と、その時の不思議な感覚を話す。
 敏江さん、エツコさんがそれぞれに、日本、ブラジルの家族の資料や写真を持ち寄り、話が弾む。
 日本側からは、箱から見つかった手紙、戦時中に伊江さんの夫、又喜さんが戦中に赴任地から送ったハガキ、満さんの訪日時の写真など。ブラジル側では、満さんのアマゾン移住に関する資料、アリアンサ小学校の集合写真、家族写真…。
 エツコさんは若い頃の誠一さんの写真を見て、「お顔や容姿が、私の伯父にそっくりなのを発見しました。満おじさんは私の二番目の兄に良く似ていられる」。エツコさんが伊江さんから聞かされていた話では「誠一さんはとてもやさしくてハンサムな人」ということだったが、敏江さんによれば「すごく頑固で、厳しい人だった」とか。
 互いの家族の話に、その夜はあっという間にすぎた。
 翌日、ハリス一家は、フランクさんの到着を待って、東さんが住むボツカツ市へ移動。東さんから満さんの昔話を聞いた。ボツカツには遠縁であるが、東さんの子どもや孫、親類ら約二十人が集まり、エツコさんらの来伯を歓迎した。
 十九日には、ベロ・オリゾンテへも足を伸ばす。満さんの子孫、誠一さんの子供ら約五十人が、一目エツコさんに会おうと二日間にわたって集まった。
 エツコさんは満さんの仏壇に焼香しようと進み出た時、奇妙な既視感におそわれた。視界のどこかに、見覚えのあるものが存在している。「写真だ!」。満さん夫妻が訪日(一九七〇年)したおりに、エツコさんの家の玄関先で撮影したものだった。
 「自分の手元にある写真と同じものが、遠いブラジル、ベロ・オリゾンテの一家の仏壇に祀られている」。エツコさんは驚きのあまり、言葉を失った。
 「ここは〃遠いどこか〃ではなくて、自分と深く結ばれた家族の家」。そう実感した瞬間だった。
 人数が多かったため、それぞれの胸に名札をつけての歓迎会となった。若い世代の参加者らは、スミさんから数えて四代目にあたる。
 自分のルーツはどこなのか―。玄祖父母らを頂点とする家系図、戦前の開拓時代の写真を前に、青年らは興味津々。誠一さんの手紙の内容をポルトガル語に翻訳して聞いた。
 サンパウロでも〃再会〃は続く。エツコさんらが誠一さんの墓参りをすましてのち、五月二十一日、六月四日と、二回にわけてサンパウロ在住の家族が集う。二十五人程度が語り合い、これまで失っていた空白の時間を埋めた。
 長い時を越えて実現した、失っていた家族との〃再会〃は、各々の胸のうち深くに刻まれて、家族の温かさ、絆の強さを再認識させるものだった。
 満さんの孫の亀井ロリン・ビニシウスさんは、両親らの会話から「生き甲斐」という言葉を聞き、感銘を受けた。ビニシウスさんは、そのときの想いを「あなたたちに会えて〃家族〃というもののエネルギーをもらった」と表現している。
 エツコさんの夫、ジェリーさんは明治文学の研究者。数週間で百人近い家族ができたことに大興奮した。日系家族を「明治の雰囲気を残している。今の日本にはないものがある」と評した。
 再会に付き添った肥田ミルトンさんは、「何かがないと、家族の系統は途切れてしまう。連絡をとって顔を合わせていくことが大事」とうなずく。
 そんな〃再会〃から一年が経った。エツコさんは家族の記録を残したいと、資料の整理を始めている。メールや手紙を交換しながら、約六十年の時を経てつながった大家族の絆を、これからも引き継いでいくことだろう。

すべての出発点=1948年にブラジルから送られた手紙

おいえさん

 実に何年振りかでなつかしい貴女の名を書いて感慨無量です。
 思えば弐拾何年振りですね。然し今回の悲惨事が長かったら、或ひは僕等一生お互に呼び合ふ事も無く終ったかも知れぬと思ふと、尚更其の感に打たれるのは決して僕丈けでは無いと思って居ます。
 血は水よりも濃いとは言ひ古るされた言葉ですが全く其の通り、海外に居る私共は今回の戦争勃発から終戦に至る迄、一日として國に居る皆さんの安否を思はぬ日とては無かった。毎日ラジオ東京を聴いては一喜一憂、遂いに終戦の御詔勅に慟哭して殆んど虚脱状態となって約半歳を過ごし、漸やく吾れに帰り従来の職を棄てサンパウロより当ミナス州の首府ベーロ・オリゾンテに移り、毎日運搬自動車を私自身運転して野菜、果物類の移動市設市場行商をやって居る様な次第です。
 お陰で市場の王様と言われる位になり、多少の余裕も出来る様になったので、僕より余裕有る兄二人と相談してほんの志丈けだけど、日本の皆さん慰問の意味で日本で不足して居ると云う品々を送らうと云う事になり、先づ手始めに砂糖などを御届けした様な次第でした。ほんの品丈けだけど、皆さんに喜こばれて僕等もこんな嬉しい事は無いのです。今后も出来る丈けの事はして上げ度いと思って居ます。
 殊に貴方は僕として従兄弟として一番生活上の交渉が多かった人、身近かな人で有った事で僕個人として出来る丈けの事はして上げ度い。出来る丈けの御相談に乗って上げ度いと、あの力に充ちた貴方の御手紙を見て沁沁と思ひました。貴方が今度の戦后夫を失くし四人の子を護る未亡人になられたとの事、宜々に御悔みの申上げ様も無い事です。而かし御手紙に有る通り御互の一生は小説そのものです。どんな悲惨な事が起っても、それを勇気を持って乗り超えて行く丈けの心構が大切です。其の意味で僕は貴方の手紙を見て実に嬉しかったのです。
 どうぞ心丈夫に将来に処して行って下さい。出来る丈けの力を貸し合って行こうでは有りませんか。御註文の古着類は現在ブラジルから直接何も送れないのでどうにもなりませんが、砂糖同様北米を通じて新品が送れますのですぐ手配して見ます。目下為替決済が矢釜ましくて送品が段々と困難となりつヽ有りますが、多少宛は何とかなりそうで切に努力中です。御待ち下さい。
 次においえさん貴方に僕として一つお願ひが有る。それは他でも無いが君の叔母さん御夫婦の事です。
 僕は日本の事を思ふ時、一番気がかりになるのはおヤス叔母さん御夫婦の事だ。雄チャンが死んでから此方、僕が一番身近かに御慰めもし御力にもなって上げねばならぬ立場に有りながら、今日迄何一つ御恩返しの事も致して居ないのです。宜々に自責の念にかられて居る。然し遠く離れて居て思ふにまかない。
 だが幸ひ貴女は近処に住って居るそうだから、今后どうか僕の分迄叔母さん方御夫婦の御面倒を見て上げて下さい。御淋しい御老后の御慰めになって上げて下さい。御不自由の無い様見立てて上げて下さい。勿論僕としても出来る丈けの事は致す積りですが、何分前述の通り遠い所の事故、その時々にお世話も致し兼ねますので、どうか貴女の分に加えて僕分迄の御考養を偏に御願い上げる次第です。
 僕もブラジルに来て已に弐拾参年になるが御承知の喘息の為め、思ふ様には活動も出来ず、殆んど財政的余裕を持たなかった。而かし是れからは努力して多少蓄財出来ると思ふ。幸ひ喘息の方も四、五年前とてもよい薬を手に入れ、現在では始終発作は有るが苦しむ事はない迄になったのです。従って今迄より楽に活動出来る様になった事を御喜び願ひます。
 次に貴女方日本に居る人々に申上げ度い事国家乃至民族としては実に悲惨な今次戦争の結果で有りましたらうが、人間としての温味を取り戻した点で或ひは日本民族の将来は反って洋々たるものが有りはしないかと(決して負け惜し味からで無く)思って居ます。私共海外に居る者から見ると、何と云っても日本人は末だ未だ諸外国人に比べて見劣りがして居た事を痛感して居た程でした。
 従って勝って頂上に登りつめてからの没落より、今日全日本人が十分の反省と努力を惜しまなかった場合の方がどれ程よかったか、俄かに判断出来ない事を思って居ます。どうぞ貴女方の子供達も右の意味を含めて将来の為めに十分の御教養願上げます。
 それから御多忙で有らう貴方に恐れ入りますが、僕の友人の一人で有る徳永寅喜(別所金比羅さんの住所の隣りに住んで居る筈です)へ砂糖を送って置いたが、今日迄何の便りも無いので砂糖が着いたか健在で居るか一度調べて呉れませんか。又元松君や荒木君等の旧友の消息も知らして呉れる様言って下さい。此の際皆の者にせめて砂糖の一回宛でも送って旧情を温め、且つ御慰めし度いと思って居ますから。
 では是で閣筆します。どうか御体を大切にして居て下さい。此方は申後れましたが母共皆健在で居ますから御休心下さい。子供は拾八才の長男から五才の四男迄四男二女の六人です。

昭和弐拾参年四月拾四日
おいえ様     誠一
次に私宛の手紙の名宛の書き方を御知らせ致して置きますが、此方から品が届いた時の宛名の書き方は今度の貴女の書き方が一番早やく間違い無く着きますから皆の人に教へて上げて下さい。その他の場合は直接ブラジル宛に別葉通り書いて送るとよいのです。

Seiti Camey Rua Rubi 443, Belo Horizonte, Brasil

熊本市本山町673 斉藤イヱ様

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