2007年9月1日付け
「大学に入ってから自分のアイデンティティを探し求めるようになりました」と講演したのは、今年の三月に中央大学総合政策学部を卒業したばかりの宮ケ迫ナンシー理沙さん(25、二世)だ。戦後移民である両親に連れられて九歳で訪日し、日本の公立校に通って大学進学を果たした。
父親が訪日したのはデカセギブームが始まった九〇年。翌年、家族があとを追った。宮ケ迫さんは九一年に小学校三年に編入したが、サンパウロにいた頃から日本語学校に通い、日本語に親しんでいたおかげで授業にはすぐに理解できるようになったという。
「当時、周りに外国人は誰もいませんでした」と思いだす。当初、両親がナンシーという名前を使わせず、日本名のみで通した。
「ブラジル人とコンタクトがなくなり、どんどん日本人みたいになった。高校に入った頃には、誰からも外国人だと思われなくなっていた」と振り返る。ポ語を使う機会がなく、本人がすっかり忘れていたくらいだった。
大学入学の際、ブラジル籍しかない彼女は外国人登録証で手続きをし、学生証の名前は「ミヤガサコ・ナンシー・リサ」になった。「自己紹介でナンシーという言葉を入れると、必ず質問され、答えるとみんな驚いた」という体験をした。
「日本移民」という存在は、大学生レベルでも周知の知識ではないようだ。「日本の学校では、歴史の授業で近代のことを勉強しません。だからほとんどの人は移民の話を知りません」という。
「大学には、子供時代を海外で過ごした人とか、留学していたとか、多彩な国際経験をした人たちに囲まれたので、わりと楽に自分のことを語ることができました。そこからルーツに目覚めました」
子供の時以来、大学四年でようやく祖国ブラジルの地を踏んだ。「子供のころの思い出の中のブラジルは、良い記憶ばかり。日本のマスコミが流すような暴力的なイメージに納得できなくて、自分の目で確かめようと思ってきました」。
サンパウロ市近郊にあるファベーラ・モンチ・アズールで半年間ボランティア活動をした感想を聞くと、「私が思っていたとおりのブラジルでした」と胸を張った。
最初こそ間違ったポ語ばかりしゃべったが、会話する中で徐々に修正された。「子供の時に少しでもやっていたことは、最初から始めるのと違って取りもどすのが早い」と感じた。
ポ語を取りもどした宮ケ迫さんは微妙なニュアンスの違いに気付くようになった。「ブラジルでジャポネーザと言われることに何の違和感もないが、日本でブラジル人と言われると少し違う。少し疎外感を感じることもある」。
その背景には「ブラジルの良いニュースは日本に来ない。ブラジルには、日本にいる日系人の悪い点しか伝わらない」というマスコミ事情があると痛感する。
「日本にいるブラジルの若者で、日本市民として何かをやろうとしている人がいることを、もっと知ってもらいたい」と強調した。
三月に卒業した後、通信制アットマーク・インターハイスクールの学習コーチに就職した。インターネット等でのやり取りを通して、アメリカの卒業資格が取得できる。彼女は「自分と同じようなブラジル人生徒たちに教育の機会を与えたい」との抱負を持つ。
在学中に地元の小中学校の補助指導員もやった。「いろいろなブラジル人の家族や子供たちを見て、教育分野での仕事を探しました。今の教育システムでは、外国の子供たちに臨機応変に対応するのは難しい。その中で、多様な子供たちの選択肢の一つになれば」と考えている。
彼女が実際に知っているデカセギ子弟の大学在学・卒業生だけで十人いる。日本全体なら百人近いかもしれません、と推測する。
日本社会で日本市民として活躍する日系人の姿は、ブラジル人のイメージを改善できる貴重な存在だ。
時と共に彼女のような存在が増えるシステムを作るには、公教育でどれだけ日系子弟を吸収できるかにかかっているだろう。彼女が大学時代に体験したような、胸をはって自分のルーツを言える教育環境をいかに整えられるかが鍵のようだ。
(つづく、深沢正雪記者)
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