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ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第15回》=パ紙経営にも一時は着手=総会「辞める!」と席立つ

プレ百周年特別企画

2007年10月17日付け

ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組
新社会の建設=創立者の光と影=下元健吉没後50周年
連載《第15回》=パ紙経営にも一時は着手=総会「辞める!」と席立つ
外山 脩(フリー・ジャーナリスト)

 下元は、パウリスタ新聞の経営にも関わったが、失敗している。
 それにふれる前に、この新聞のことを少し記しておく。
 パウリスタ新聞は、その創刊とそれ以降の経営の曲折自体が、新聞記事的である。
 創刊は、終戦直後、認識運動を進めようとする人々によって、なされた。
 そのために最初に奔走したのが、野村忠三郎である。野村は戦前、日伯新聞の全盛時代、編集長を務めた経験上、敗戦認識のためには邦字新聞の発行が不可欠であると、その実現のため奔走した。が、一九四六年四月一日のテロ事件で斃れる。
 直後、現場に駆けつけたのが同志の藤平正義で──後にブラジル豊和工業を起こしたヤリ手だけに実行力に富み──野村の志を継ぎ、邦字紙発行の許可を取得すべく、政府当局への働きかけを始める。前出の山本喜誉司を動かし、共にリオへ行き、ドゥトラ大統領に直訴した事もあった。
 その後、種々の経緯があったが、許可は取得され、一九四七年の年頭に発行されたのがパウリスタ新聞である。
 藤平は、さらに奥ソロカバの認識派の有志に頼んで、出資金を調達したりした。
 この時、コチアの下元健吉も組合員に呼びかけ、資本金の募集に協力した。自然、組合員応募者の代表格になっていた。
 設立された新聞社の采配者には、戦前これも日伯新聞に居った蛭田徳弥が招かれた。
 ところが、社内に内紛が起こり、藤平の留守中、山本喜誉司の調停で蛭田は退き、これも日伯系の竹内秀一が後釜に座った。それを後で知った藤平が激怒、山本と交渉を絶つ。
 その後、経営者がまた交代、竹内は身を引く。
 コロニアの抗争を終わらせるという高邁な理想を掲げて出発した割には自身、内紛続きであった。その原因は、
「読者層を広げる一方、勝ち負け両派の中間層に浸透して戦勝派を孤立させよう。そのためには、いつまでも敗戦認識の暗い記事ばかりをつくってはいられない」と編集政策の転換を要求する声と、「それは時期尚早」という反対の声が、ぶつかったためと言われる。
 が、それだけでは名状し難い複雑な状況であった。
 竹内退陣後、乗り出したのが下元健吉である。発足二年で経営者が三度代わったことになる。
 下元は、名目上の社長は別人にしていたが、実権は自分が握った。
 しかしコチアの仕事と兼任であったことにもよろうが、この下元を以ってしても内紛は収まらない。この間、下元に近かった伊藤直氏(前出)は追われ、同じく増田秀一氏も、自身が書いた資料類の言葉を借りれば、「生贄にされて……」去る。
 一方、前記の竹内派が分離独立、日伯毎日新聞を起こしている。
 ポルトガル語欄を担当していた二世グループも下元と衝突、喧嘩別れになった。
 下元は、コチアの会議で自分の意見が通らないと、腹を立てて、
 「辞める!」
 と一言、上着をかついで席を蹴って出て行ってしまう、という事がよくあった。それを一九五五年のパウリスタ新聞の総会でやってしまった。
 コチアの場合は、必ず組合員代表が下元の後を追って自宅まで行き、慰留した。ところが、パウリスタ新聞の場合は、それをする者がおらず、自動的に下元辞職ということになってしまった。
 下元は、コチアの外では、戦前は産青連運動を成功させ、戦後この頃は、農拓協を設立、産業開発青年隊移民の導入などの事業を具体化させており、すべて失敗したというわけではない。
 が、コロニアの指導者間では孤立していた。もっとも、その指導者たちも、下元の業績は認めていた。
 要は人気がなかったのである。
(つづく)

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