ホーム | 日系社会ニュース | タボン・ダ・セーラ文協有志=州立小学校の校名を戻す運動=3万人が学んだ伝統校=「フジオ・タチバナ」を「日伯」へ=75年余前から教育熱心=戦中も〃灯〃消さずに

タボン・ダ・セーラ文協有志=州立小学校の校名を戻す運動=3万人が学んだ伝統校=「フジオ・タチバナ」を「日伯」へ=75年余前から教育熱心=戦中も〃灯〃消さずに

ニッケイ新聞 2007年11月08日付け

 聖郊タボン・ダ・セーラ市で現在、同地文協に隣接する州立小学校「フジオ・タチバナ学校(Escola Estadual Fujio Tachibana)」の名称を、元の名前である「日伯(Nipo-Brasileiro)小学校」へと戻す運動が進められている。タボン文化体育協会の有志が中心となって行っているもの。同会館で十月二十日、同文協の協力の下、関係者により運動資金調達と文協創立七十五周年を兼ねた催しが開かれた。
 同文協ではこれまで、一九二六年を創立の年として節目の年を祝ってきた。組合創立者の一人、桑原ナオジ氏宅で地元関係者が集いを持ったのがこの年にあたる。前身の「タボン農會(Sociedade Agricola de Taboao)」が六〇年に「タボン日本人会」へ、七一年に現在の名称に変更された。
 しかし、八十周年式典を計画していた昨年、初期入植者の親族から創立年について異議が挙がり、この年は開催を見合わせ。その後、弁護士の増田稔さんの調査で、三二年一月二十日にタボン農會が登記されていることが分かった。
 初代会長はコチア産組監査役などを務めた守屋敬太郎氏。中尾トヨキチ氏が副会長、桑原氏が会計を務め、三四年に現会館土地として約三万六千平方メートルを購入。敷地内にはブラジル学校を設け、戦争中は二世を会長にすえて、日系・非日系ともに地元子弟の教育を続けた。創立者の教育への情熱は、当時の登記書類にも記されている。
 現在の州立学校敷地約四千平方メートルは、六六年に当時の桑原ヨシモリ会長がサンパウロ州政府に寄付。七一年、時のラウド・ナテル知事により学校が建設され、「日伯」と名づけられた。しかしその後、九六年、小林パウロ州議(当時)の提案により、同校の名が「フジオ・タチバナ」と改められた。
 こうした経緯を踏まえ、昨年三月ごろから、初期入植者の親族などにより校名を元に戻す運動が始まった。
 同校では創立以来、三万人の児童が学んできたという。創立者の一人で長年会長をつとめた宮路美義氏の親族、宮路アリッセさんは「学校の教師たちも賛成してくれ、運動はうまくいっている」と手ごたえを話す。
 そしてこのほど、文協創立七十五周年と、運動資金集めを兼ねた催しが開かれることになった。
 サンパウロ市に隣接、戦後急速に都市化したタボン市。「農業をしていた人がさらに奥へ移転して、昔のことを知っている人がいなくなった」、文協会長をつとめる有明正一さんは現状を説明する。
 同文協としては、今回の七十五周年については、まだ調査の結果を確認していないということで協力にとどまったが、調査を通じ「(七十五周年かどうか)はっきりすればいいと思いますよ」と話す。
 当日は、会館グラウンドで牛の丸焼きも実施。会員、地元住民など数百人が集まった。会館内ではピラチニンガ文化体育協会など近隣文協による踊りのほか、ビンゴも行われた。同市のエビラシオ・ファリアス市長も会場を訪れ、タボン日系社会が市の発展に果たした貢献を称えた。

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