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読谷村人会=「あゆみ」出版に2百人=〝百年の三線〟も披露

ニッケイ新聞 2007年11月15日付け

 「ブラジル読谷村人会のあゆみ」出版記念会が十月二十八日午後五時から、沖縄県人会ビラ・カロン支部会館で開かれた。読谷村人会(知花良信会長)が主催。市議、県人会関係者など来賓多数をはじめ約二百人が集って発刊を祝った。
 同記念誌は九九年に会創立三十周年を記念して企画、母村の協力も得て編集に着手したが、その後停滞。八年の年月を経てようやく完成の日を迎えた。
 知花会長に続き挨拶に立った知花眞勲編集委員長は、「発刊が遅れて、村に申し訳ない思いだった」と振り返り、関係者に謝意を表した。当時会長だった阿波根直仁さんも挨拶に立ち、その経緯を説明した。
 一方、出版が遅れた事で、同村出身の笠戸丸移民、宮城伊八氏の四男・清信さん(72、二世、現沖縄県人会監査)と孫の与那嶺ルーベンスさんと出会うなど新たな収穫もあった。
 取材・執筆にあたった宮城あきら編集委員は「出版は遅れたがこうした出会いがあり、記念誌としては豊富な資料がきれいにそろっている」と力説。資料整理にあたった森幸一USP教授に敬意を表した。
 山城勇・元沖縄県人会長は「二十年、三十年、四十年後にその価値が発揮されると思う」と関係者の労をねぎらった。
 会長から清水潔オリジオ・レアル銀行専務取締役、島袋パウロ・パウロス社長、宮城、大城栄子両編集委員に感謝状を贈呈。一同乾杯し、食事を囲み談笑した。
 戦後同村からも多数移住し、劣悪な環境下で全家族が撤退した麻州カッペン植民地に入植した眞勲さんは、マラリアのため同地で二人の子供を亡くしている。「結局、食べるものがなかったから栄養失調で亡くなった。四女は生後二日で亡くなった」と目を細め、昨日のことのように遠い過去を思い出していた。
 またこの日は、十八歳で移住した宮城伊八氏が持参した三線がお披露目され、眞勲さんが夕食後の合同演奏で弾いた。
 長年三線を保管していた清信さんは、その音色に「感動した」と話し、「父はこの三線で皆に民謡を教えていた」と振り返った。
 琉球舞踊も祝賀会に花を添え、眞勲さんは「天気も良く、来賓の方がたくさん来てくれたことが良かった」と満足そうに話した。

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