ホーム | 日系社会ニュース | ブラジルで日本人医師の〃草分け〃=もう一人の野口英世=高岡専太郎(15)=「日本医科大学卒」と判明=1938年同窓会名簿に氏名

ブラジルで日本人医師の〃草分け〃=もう一人の野口英世=高岡専太郎(15)=「日本医科大学卒」と判明=1938年同窓会名簿に氏名

ニッケイ新聞 2008年6月13日付け

 薬学校の調査と同じように、明治三十八年以降高岡専太郎が在学していたかを調べていただく学長あての調査依頼書を、慈恵医科大学と日本医科大学に送った。
 慈恵医科大学からは在籍及び卒業の記録なしの返答があった。また日本医科大学からも在籍および卒業についての確認ができなかったという返事とともに、参考までにと、日本医学校の同窓会名簿(抜粋)と前身である済生学舎同窓会名簿(抜粋)の写しをいただいた。
 日本医科大学の同窓会名簿は、非常に大きな希望を提供してくれた。というのは秋田の郷土史の「雄勝の全貌」によると、横堀の町医者佐藤泰三は、慶応元年生まれで明治十六年済生学舎を卒業、同年開業医試験合格、明治二十三年開業、しかしながら済生学舎の卒業者名簿に入っていなかった。
 また明治二十二年川連村生まれの高橋友二郎は、明治三十九年四月上京し、日本医学校に学び、特別に一年で卒業、明治四十年開業医試験合格、明治四十一年実地試験合格とある。日本医科大からいただいた名簿には彼も載っていなかった。
 このことから名簿にないからといって、必ずしも卒業生ではないと結論できないという希望が生まれた。済生学舎が廃校となり、明治三十七年四月私立東京医学校と私立日本医学校に分離し、明治四十三年合併するまでの期間、名簿上の空白や不備が発生した可能性があると思った。
 それに加えて日本医学校の建学の精神「済生救民」(病気で苦しむ貧しい人々を救うのが医者の役目)が医者の道とある。専太郎の生き方はまさにこの精神を受け継いでいる。
 こんな理由からもう一度日本医科大学に何か別の方法で卒業の確認作業をしていただけないかお願いした。早速日本医科大学の荒木勤学長よりお手紙をいただく。
「(略)先に卒業の確認を依頼した教務課及び同窓会事務局以外に急遽、本学図書館に調査をお願いしました。その結果、同封致しましたように昭和十三年十二月に発行された「日本医科大学同窓会会員名簿」の海外正会員のページに高岡先生のお名前を発見致しました。
(中略)「済生学舎」時代の文献資料が散逸しており、それらを収集、保管する専門の担当部局がないことが一因と考えられます。(中略)学校法人日本医科大学では資料館設立準備室を設け,資料館の開設に向けて動き出したところです(以下略)」。
 今回複雑な歴史資料のなかから、荒木学長大沼庶務課長、殿﨑中央図書館事務室長の尽力のおかげで、専太郎と医学校が結び付いた。先日大学にお邪魔した折に、橘桜会館(同窓会館―夏目漱石住宅跡)には吉岡弥生、野口英世などを含む済生学舎時代からの先駆者たちの資料を展示しているコーナーが既にスタートしていた。つづく(押切宗平)

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