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「感謝の気持ち伝えたかった」=38年前、コロニア募金で帰国=悲運乗り越え、姉妹再訪

ニッケイ新聞 2008年8月23日付け

 母親を病気で、父親を不運の事故で亡くした五人の兄弟姉妹が、在伯県人、コロニアの募金で祖母の待つ沖縄へ――。一九七〇年にあったこの出来事は当時、邦字紙でも大きく報じられた。あれから三十八年―、五人のうちの姉妹三人が「感謝の気持ちを伝えたい」とブラジルを訪れた。長女の正美さん(52)、次女のミキコ・エレーナさん(48)、三女のミチヨ・シルバーナさん(43)。日本へ向かって以来、初めて踏んだブラジルの大地だった。
 事故が起きたのは七〇年十月。父・比嘉昭栄さん(読谷村出身)がマット・グロッソ州クイアバの自動車修理工場で仕事中に誤ってガソリンに引火。全身に大火傷を負い四日目に亡くなった。
 六〇年に渡伯した比嘉さんはサンパウロ州パカエンブーからマ州カッペン植民地に入植、七年後に同地を出てクイアバでフェイランテをしていた。母、弘子さんはその半年前にガンのため死去していた。
 残された五人の子供たちは叔父・比嘉徳太郎氏の手でサンパウロ市の祖母宅へ。徳太郎さんら親戚や同郷の新城勝常さん、屋比久孟清・在伯沖縄協会(現県人会)会長ら関係者が協議して、子供たちを祖母や親類のいる沖縄へ返すことが決まった。
 しかしブラジル生まれの下の子三人には国援法が適用されない。そのため、協会と、発足まもない読谷村人同志会(現・村人会)が中心となって帰国旅費を集めるための募金運動が始まる。
 「この子たちを守ろう」―邦字紙もこれを大きく報じた。「ブラジル読谷村人会のあゆみ」によれば、募金は五人の旅費に十分な三万千五百クルゼーロスに上った。翌年三月、子供たちは沖縄へ向け出発した。
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 それから、三十八年が過ぎた。
 子供たちは沖縄の祖母宅で暮らし、帰国当時十五歳だった正美さんは中学卒業後、働き始めた。
 ミキコさん、ミチヨさんは高校を出て、現在はそれぞれ美容師、看護師をしている。長男次男は今回来られなかったが、五人ともそれぞれの生活を営む。
 「学校では『ブラジル帰り』と騒がれてね」と帰国当時を思い返す正美さん。「職場の人には『何しに行くの?』と言われたけど、(ブラジルの)土地を踏むだけでも良かった」と、今回の訪問への思いを表す。
 帰国当初は日本語に苦労したというミキコさんは「無我夢中でした」と三十八年を振り返り、「両親が亡くなり家が片付けられていた光景を今も覚えています」と涙を浮かべた。「姉が一番大変だったと思います」。
 「姉たちに比べて私は楽だったと思いますよ」当時五歳だったミチヨさんは、その頃のことは「兄や姉から聞いて知った」という。ただ、クイアバの家に咲いていた花の匂いは覚えていた。沖縄で嗅いで思い出したその花は、金盞花(きんせんか)だった。
 三人はミチヨさんが成長してから、毎月二、三千円ずつ出し合ってブラジル訪問の費用を貯めてきたという。ブラジル生まれのミチヨさんは「お世話になった感謝の気持ちを伝えたかった」と気持ちを語った。
 比嘉さんと同じカッペン植民地に入植した山内幸寿・読谷村人会長も当時を振り返り、「県人会の人たちに本当にお世話になりました」と感謝を表す。
 三人は今回の来伯で、沖縄県人会へ寄付を行なった。与儀昭雄会長は「また来てくれたことにお礼を言いたい。寄付も頂き感謝しています」と話した。
 兄弟とサンパウロで一緒に暮らした従兄弟の比嘉建造さん(57)は十八日、空港まで三人を迎えに行った。当時家は縫製業を営んでおり、全部で十四人の大家族になったという。「子供の頃と同じ顔。すぐ分かりましたよ」。「お兄さんのようなものでしたね」、正美さんがつけ加える。
 三人はサンパウロに滞在後、来週から親戚の住むクイアバや、カッペンを訪れる予定だ。正美さんは「周囲の皆さんのおかげで成長できたと思います」と話し、「皆さんに支えられ、言葉に表すことができない気持ちです。一人一人を回ることはできませんが、その時は本当にお世話になりました」と、新聞を通じ関係者へ感謝を表した。
 当時を知る新城さんは、「皆が覚えていて、お金を貯めて来てくれた。なんとも言えず嬉しい。感動しています」と感無量の表情を見せた。

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