ニッケイ新聞 2008年10月11日付け
ツッパンー。戦前の代表的日本人集団地であり、マリリア、ポンペイアに次ぐ臣道聯盟の構成員を擁したという。勝ち負け抗争では三人が暗殺される悲劇が起こった場所でもある。
牛乳の生産量は国内二位を誇る酪農を中心とするこの町の人口は約七万。緑の多い落ち着いた車窓からは、マンゴーがなっているのが見えた。
そういえば、ホテルの朝食にマンゴーはなかったな、と思っていると、ガイドのエリオ氏が午前の予定地バストスで訪れる養鶏場の説明を始めた。
そういえば、卵もなかった。しかし、何故ブラジルの朝食はいつもどこも同じなのだろう。一度、湯をもらってカップヌードルを食べたことがあるのだが、他の客に変な目で見られたことを思い出した。
ブラジルの三十キロはすぐである。直線ならばなおさらだ。「卵の町バストスへようこそ」の看板が見えた。
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外部からの訪問を嫌う養鶏業者にあって、この見学を引受けてくれたのは、地元随一の養鶏業者である薮田修さん(67、二世)。説明によれば、四百万羽を所有し、毎日約三百万以上の卵を全伯に出荷するという。
参加者らは順番に鶏舎に入り、六段に積まれた約八万羽の住居を見学、それぞれが感嘆の声を上げた。
「立派なもんだねえ」と感心しながら、「これが使えるといいのが出来るんだけどねえ」と足元に積もった鶏糞を見遣るのは、サントス在住の有坂隆良さん(69、長崎、四回目)。
レジストロ近くの町カジャチでバナナを栽培しており、肥料には鶏糞が最適なのだというが、一トン二百レアルと高価なため、化学肥料に頼っているという。 「それでは…フンだんに使えないですね」と返した記者に有坂さんは、苦笑いで答えてくれた。
とはいえ、薮田さんによれば、バストスには特有の病気があり、他地域に持ち出すときは必ず、鶏糞も含め、検疫を受ける必要があるようだ。
選卵場では、従業員らが熱心に大きさに分け、選別している。従業員の一人に熱心に話を聞いていた中島静子さん(69、二世、二回目)が、「売るには良くない卵だから、センベイ工場に売るんだって」と教えてくれた。
バストスは約五十年ぶり。「アラサツーバの女子青年会時代にきたのよ。十二、三歳だったかしらね」と嬉しそうな表情を見せた。
続いて訪れたのは、バストス史料館。ちょうど百周年を記念した巡回写真展が開かれていた。昨年からJICA青年ボランティアとして同史料館に勤務している宮良長さん(34、沖縄)によれば、開始日からわずか十日間で、地域の学校の生徒を中心に五百人以上が訪れているという。
移民写真を見る移民という構図で写真を撮っていると、壁に掛けられた第一小学校の写真を懐かしそうに眺める村口ゆりさん(84、佐賀、五回目)の姿がファインダーを通して目に入った。四十五年にバストスを出てから、六十三年ぶりの訪問だという。
「誰か同級生に会えるかと思って、今回楽しみにしてるんだけど…」と持参した卒業写真を見せてくれた。
可愛らしい少年少女のなかに元バストス市長で三重県人会長を長く務め昨年七月に八十四歳で亡くなった西徹さんの姿もあった。
「いやあ、何か見覚えがあると思ったんですよ」と嬉しそうに七五年まで病院だったという同史料館内部を見渡すエリオ氏。
「子供のころ、卵祭りにきたんですよ。そのとき、雨の中で遊んで四十度の熱が出て、二晩入院したんですよ。懐かしいなあ」
石田京子さん(77、北海道)は生後間もなく親族十八人でバストスに移住、二十五歳まで住んでいた。
「学校出たあとは刺繍を教えたりしてね。だから、子供だったけど、溝部幾太さん(勝ち負け抗争最初の被害者)も知ってます。家はすぐそこだったですよ」と話す。
「知り合いもいるし、バストスは〃ふるさと〃。でも七月の『卵祭り』には、はまなす会(北海道協会婦人部)の方が忙しくてあまり、来れないんだけどね」と屈託なく笑った。(つづく、堀江剛史記者)
写真=バストス第一小学校のアルバムを懐かしそうに開く村口ゆりさん