ホーム | 日系社会ニュース | 〃日本人気質〃の学校だった=サンパウロ市=コレジオ・パウリスターノ=40年ぶり初の同窓会=ブラジリアからも参加=「来年はもっと盛大に」

〃日本人気質〃の学校だった=サンパウロ市=コレジオ・パウリスターノ=40年ぶり初の同窓会=ブラジリアからも参加=「来年はもっと盛大に」

ニッケイ新聞 2008年10月15日付け

 リベルダーデ区にあったコレジオ・パウリスターノ卒業生の約四十年ぶり第一回目の同窓会が、九日夜、同区の中華料理店で開かれた。連絡先が残っていない中、今年六月から本格的に呼びかけを始め、集まったのは一九六〇年代に同校を卒業した九人と同伴者六人の計十五人。同じ学び舎で青春時代を過ごした六十代前後の男女らは、当時の話に花を咲かせ、現在の報告をしあい、顔をほころばせていた。
 同窓会の話は、平崎靖之幹事(62、広島)がアデリコ・マチオーリ陸軍少将と話しているうちに、互いに同校の卒業生だったことが判明したことから始まった。普段は大学名を聞くのみだが、偶然が偶然を呼び、知った二人は驚いたという。
 この二人に加え、森陽一郎さん(63、二世)、高木オズワルドさん(60、二世)、丹羽健司さん(59、二世)の五人が幹事となり、知っている限り声をかけた。この日、ブラジリアから飛んできたマチオーリ夫妻を除けば、集まったのは日系一世、二世のみ。同校は日系人子弟が多く通い、クラスによっては五割を占めていたという。
 文協から歩いてすぐのタグア街にあった同校は約二十年前に廃校。現在校舎はFMUが使用している。中学四年、高校三年生までが通っていた。サンパウロ市近郊サンベルナルド・ド・カンポ市のアルモニア学生寮から通っていた学生も多く、毎朝六時にバス二台が出ていたそうだ。
 当時サンパウロ市で二番目に難関だったルーズベルト公立高校に次ぐと言われていた同校。齋藤綏子さん(61、広島)によると日本人気質に合った規律に厳しい学校だったという。服装にも厳しく、制服のネクタイをし忘れるだけで校舎に入れなかったという。
 再会を喜びながら席についた卒業生たちは、一言ずつあいさつ。平崎さんは興奮した様子で今回の経緯を話し、今後輪を広げ来年は大きなサロンを借りて盛大に集まりたいとし、第一回目の再会を喜んだ。チオーリさんは、四十年前の校歌をハミングして場を驚かせ、昔を振り返った。また、あいさつの中で日系人の活躍にも触れ百周年を祝した。
 食事中は思い思いに会話を楽しんでいた。現在眼科医の森さんは、アルモニア学生寮から通っていたうちの一人。同じクラスから森さんを含め四人が医学部に進学。当時サンパウロ市近郊の医学部は二割が日系人だったことにも触れて、「一生懸命勉強したけど、毎日楽しかったよ」と目を細め、かつての仲間たちとのひと時を楽しんでいた。親が呼び出された話や印象深い教師の話など話題は尽きぬまま、来年の再会を誓って解散となった。

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