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サンパウロ市で続く出身者の集い=今年もジャクチンガ会賑やかに=パラナ、南マ州からも訪れ

ニッケイ新聞 2008年10月23日付け

 サンパウロ州ポンペイア郊外にあったジャクチンガ植民地出身者の集いが、十二日、サンパウロ市の青森県人会館で開かれた。同地の植民会が作られて七十周年にあたる今年は、入植者や、同地で幼少期を過ごした人、ジャクチンガ生まれの人たちやその子孫など約八十人が出席して交流を深めた。例年より少なめだったが、遠くはパラナや南マット・グロッソからも訪れた。
 正午ごろ、一品持ちよりの料理を前に開会。世話人七人を代表してあいさつした国井精さん(72)は、「年々昔の苦労話をできる人がいなくなって寂しく思う」としながらも、世話人や夫人、諸費用を寄付した関係者を紹介し、「心からジャクチンガを愛してくれる人たちのおかげでこういう会合ができる」と感謝を表した。
 植民地生まれで、寄付者を代表してあいさつした河野誠さん(61)は、世話人の尽力があってこそ集いが開催できると労い、「こうして交流が続けられることが一番大切なこと」と話した。
 先亡者へ黙祷、一同で乾杯した後、昼食会へ。会場には出席者たちの歓談の声があふれた。
 十代半ばから六年間同地で暮らした羽森栄さん(78)。同級生が出席できなかったと残念そうだったが、「運動会なんかもあってね。いい所でしたよ」と振り返る。
 国井さんの兄、マリオさん(74)は南マ州カンポ・グランデから参加。パラナ州カンポ・モウロンから訪れた深瀬エリオさん(75)と話をはずませていた。
 日本語教育がまだ禁止されていた一九四六年、国井さん宅倉庫で行なっていた日本語授業が警察の捜索を受けたとき、深瀬さんも生徒としてそこにいたという。「綿のサッコ七袋分くらい日本語の本が押収されてね。残った本を畑に隠したけど、数日後に行ったら無くなっていました」と当時の記憶をたどる。
 深瀬さんの妹で植民地生まれの豊美さん(59)は、同地を出て以来はじめて出身者会に参加したという。
 この日は学校時代の友人、南美智子さん(62)と半世紀ぶりに再会。南さんから「雨で道が悪かった時、(豊美さんが)学校までおんぶしてくれて私の靴が汚れなかったの」と思い出話が出ると、嬉しそうな表情を浮かべていた。
 戦前の最盛期には約五百人が暮らしたというジャクチンガ。現在は牧場に変わり、入植家族はいないが、世話人の山矢三郎さん(71)は「以前訪れたら、(野菜を運ぶため)当時舗装した道がそのままだったよ」と懐かしむ。
 長谷川利一氏(故人)らにより最初の出身者会が開かれたのは一九七五年ごろ。スール・ブラジル産業組合に十二人が集まった。世話人をつとめた染谷義雄さん(86)によれば、中沢源一郎同理事長が〃うちでやれ〃と勧めてくれたという。
 当初は十年ごとに、九九年に国井さんたちが引継いでから毎年開かれ、今年で十二回になる。
 集いには長谷川氏の娘、宮田絢子さん(64)夫妻の姿もあった。父親が亡くなってから参加するようになったという絢子さんは、「父はいつも忙しそうに世話役をしていました」と振り返っていた。
 サンパウロ市在住の佐藤正行さんから寄付された花瓶と、世話人が百周年での開催を記念して用意した皿が出席した家族ごとに贈られ、午後三時頃、参加者たちは再会を約束しながら会場を後にした。

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