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連載〈1〉ファッチマさんの場合(1)=「自分の人生を歩んで」=全てを奪って消えた夫

ニッケイ新聞 2008年12月5日付け

 アメリカ発の世界同時不況のあおりを受けて、帰伯デカセギの動向が日本メディアでも盛んに報じられているが、日本の永住者資格を取得し、長期滞在するデカセギも近年増加の一途を辿っていることも指摘されている。しかし、母国に夫や妻、子ども達を残して音信を絶つ人が相当数に上っていることは十分に知られていない。また、日伯の法律は現在のような大量移住を想定しないでつくられており、現状に適応していないことも、移民百周年後の日伯両国の課題となっている。こうした背景を踏まえ、デカセギに〃捨てられた〃留守家族の苦悩と想いを探るとともに、両国間にまたがる司法的な課題や現状を探った。(池田泰久記者)

 

 サンパウロ州モジ市郊外。日系人の家庭が多く暮らす閑静な住宅街の一角に、アパレシーダ・ファッチマさん一家の自宅がある。レンガ造りにトタン屋根を載せた質素な家。彼女とその弟夫婦、子ども達が材料を集めた手造りの建物だ。三年前、十年ぶりに姿を現したデカセギの夫に財産を取られてから、一家はここでの生活を強いられている。
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「彼が言ったことはすべてうそだった」。取材中、ファッチマさん(42)の肩は怒りで何度も震えた。「一度も仕送りを受け取ったことはない。彼は私からすべてを奪っていったのよ」。
 日系二世の夫、ウイルソン・サコダさんと知り合ったのは十代後半。モジのバイレで出会い、数年の交際期間を経て結婚した。間もなく長男のウエズリーさん(20)が生まれた。
 「でも彼はろくに働かない人だった。友人とジョーゴ・デ・ビッショ(宝くじ)ばかりしていた。それでお金に困って、彼は日本に行くことしたの」。
 サコダさんは九〇年代はじめ、妻子を置いて日本の工場で一年間働き、帰国した。ただ、改めて仕事を探す素振りもなく、どこか落ち着きがなかった。七カ月後に二人を連れて再度日本に行くと約束した。
 しかし、いざ出発当日になって空港でこう切り出した。「ビザが出たのは俺だけ。おまえ達は飛行機に乗れない」。ファッチマさんは不審に思ったが、海外渡航の経験もないこともあり、仕方なく引き下がった。
 時折、夫から手紙が届いたが、家族への送金は一度もないまま三年後に夫は帰国した。ファッチマさんはタイスさん(13)を身ごもったが、夫は身重の妻を残して、また日本に行った。
 一九九六年七月二十日。臨月間近の妻を気遣う電話を最後に、夫からの連絡が途絶えた。この後届いた一通の手紙にはこう書いてあった。「私はもうブラジルに帰らない。あなたは自分の人生を歩んで欲しい」。
 実はそれ以前に彼から受け取った手紙に写真が同封されていた。そこにはピンクのスリッパとシーツがあった。「日本に愛人がいる」。彼女はすべてを悟っていた。
 ブラジルで離婚訴訟を起こし、裁判官はファッチマさんの言い分を認めた。しかし、養育費の取り立ては認めなかった。夫が静岡、愛知など所在地を変えていて、訴訟は難しいと判断したためだ。
 この頃、夫の父親が結核を患い入院。親戚と相談のうえ、ファッチマさんが義父を引き取った。何年かの介護のあと、父親は亡くなった。ただ、葬儀の日にも、一人息子の夫は姿を現さなかった。
 生活は困窮した。子ども二人を育てるためには恥も外聞もなかった。化粧品の行商をしながら、ゴミを漁って空き缶の廃品回収を始めた。「道端で小銭をせびったこともある」。
 九七年ごろ、日系人が経営する薬局に就職。ぎりぎりまで節約を重ね、貯金もできた。ローンを組んで自家用車とアパートを購入、ようやく将来に希望をもてるようになった。
 しかし、その生活も長くは続かなかった。「タイスに会いたいからブラジルに帰る」。十年振りに夫がよこした手紙が一家の生活を暗転させた。(つづく、池田泰久記者)

写真=廃品回収で集めた空き缶の束を手にするファッチマさん(自宅で)

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