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連載〈4・終〉=桜組挺身隊の集会に参加=父親「まあ、黙っとけ」

ニッケイ新聞 2009年1月10日付け

 五四年五月、サントス港に到着した夜、池田さんは一人で泣いた。
 「どうして帰ってきたんだろうって。あんなに日本で良くしてもらって」とも思っていた。
 帰伯後、最初は弟の仕立屋を手伝ったが、すぐに自分の店を開いた。
 当時、福岡県人会に寄った時、「ブラジル時報の記者から『あんたコチア青年か』と言われました。どこか日本の空気を身につけてきたんでしょうな」と苦笑いする。前年の五三年一月、戦後初の移民がオランダ船サダチネ号で到着したばかりだった。
 五四年二月二十日、サントアンドレーに本拠があった桜組挺身隊が白鉢巻き、白袴の異様な出で立ちで同市内を練り歩き、第一回デモ行進をした。戦勝を信じて、日本民族は祖国に帰国、義勇軍を組織して朝鮮戦争に参加することを訴え、翌五五年二月にはサンパウロ市で街頭を戦勝行進し、総領事館前に座り込んだ。
 コロニアはまだ、そんな時代だった。
 当時、池田さんは桜組挺身隊の集会に参加したことがある。集会ではサンパウロ市デモ行進が話題の中心だった。
 当然のことながら「日本はどうだった?」と聞かれ、「負けた」と正直に答えた。すると「お前、本当は日本に行っていないだろう。ユダヤ人に騙されている」などと責められた。
 三十二歳、血気盛んだった池田さんは黙っていなかった。文協会館では勝ち組青年とケンカにもなった。
 「自分で見てこんことにはわからん!」。そう池田さんは啖呵を切った。実際そうだった。自分の目で見ないことには納得しようもなかった。だから、みんなの気持ちも痛いほど分かった。
 次第に、友だちは「本当に負けてるんか」と聞いてくるようになった。父親はすべてを飲み込んで「まあ、黙っとけ」となだめた。
 理屈ではない。日本との郵便も復活し、邦字紙が情報を伝えるようになっても、感情的には納得できるものではなかった。難しい時代だった。落ち着くまでには長い時間が必要だった。
 池田さんは帰伯後、スポーツを通して健全な日系子弟を育成することに邁進した。三十年の長年に渡って柔道の師範代として指導に尽くしたのみならず、帰伯した年に創立されたサントアンドレーABC文化協会の設立にも加わり、七二年には体育部長として卓球部を設立した。
 八〇年、九九年と二期も同文協会長を務め、八四年から福岡県人会の副会長も十年間務めた。同地日系コミュニティの重鎮として知られる。
 十年前に「もう定年」と思い仕立屋を閉めたが、お客さんから「時間かかってもいいから作ってほしい」との注文が絶えず、「今でもやってますよ」と笑う。
 日本に帰った当時のことを今はどう思うかと尋ねると「ムチャクチャでしたな」と一瞬、破顔一笑した後、噛みしめるように「今も日本に行って良かったと思う」と何かを振り切るように言った。
 「福岡県人会と相撲連盟から一回ずつ、日本に行かないかという話があったが断った」。今も日本人としてのこだわり、祖国への熱い思いは誰にも負けない。ただし、思い方が日本へ行く前とは違う。コロニアこそが故郷なのだ。
  ◎   ◎
 今まではコロニアの戦後を語る時には、特行隊による数々の暗殺事件の悪い印象が一人歩きをしてしまい、あたかも勝ち組全体が良くなかったかのような論調で語られることが多かった。
 その結果、当時のコロニアの九割を占めたと言われる勝ち組の思いは、邦字紙の紙面にあまり記録されてこなかった。
 戦後六十四年を迎えようとしている今、中立的な立場から、考え直す時期になってきた。九割の気持ちもまた、移民史上欠かすことのできない重要な部分だ。(終わり、深沢正雪記者)

写真=55年2月にサンパウロ市セー広場を行進する桜組挺身隊(パウリスタ写真年鑑56年)

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