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松原植民地=56年目の追憶=連載〈9〉=移民の生活支えた片山氏=功績伝える「カタヤマ街」

ニッケイ新聞 2009年1月30日付け

 松原植民地を支えた人の中で、片山利宣氏(一九一六年一月~八〇年三月)を忘れることはできない。
 「日本・ブラジル交流人名事典」によると、片山氏は一九二九年八月「まにら丸」で移住。聖州ムニシピオ・アベニーダ耕地に入耕したが、五二年にドウラードスへ移転。五五年にカフェの品質改良等に尽力し、聖州、パラナ州に並ぶ一級品として認められている。
 また、同年にはブラジル銀行のドウラードス支店の代表になり、六五年にはブラジル銀行が国境百五十キロ以内の外国人に農業融資をやめる法令がだされたため、ロベルト・カンポス企画大臣(当時)とドウラードスの代表として交渉にあたり、再融資の道を開いている。地元日系団体の役職も歴任した。
 ドウラードスに移った後は雑貨店を経営していた片山氏は、松原植民地への入植者に経済的、精神的に協力し、支えてきた。
 同市在住の小野享右さんの説明によると、同地で雑貨店を営んでいたのは片山氏を含めて三軒だけ。そのため、多くの人は片山氏の店を中心に雑貨品をはじめ、米、塩、砂糖などを購入した。松原植民地には無一文で入った人たちが多かったために、初期の頃は片山氏から借りて生活していた人が大半だったという。
 片山氏はこの他に、精米所やカフェの仲介も行っており、入植した約六十家族のうち三十~四十家族は片山氏とカフェの取引をしていたのではないか、と小野さんは回顧する。しかし、入植者全員と関わっていたわけではなかった。
 カフェの仲介を行っていたことからポルトガル語にも優れ、片山氏は聖市やサントスをよく訪れていた。その時に総領事館や不動産会社などとも交流があり、入植者にとって必要不可欠な存在だった。
 松原植民地の入植者は、ドウラードス市にある病院へ行くのにも一日がかりだったため、片山氏の家に泊めてもらったり、医者との通訳をしてもらったりして、ずいぶんと助けられた。
 多くの人の世話をしてきたことから、地元日本人会の中でも大きな影響力があり、十五、六あった日本人会を一つにまとめ、現在の南マ州連合会を設立させ、初代会長に就任した。
 片山氏は亡くなった後に叙勲を受け、ドウラードス日伯文化協会内に銅像が建てられている。また、ドウラードス市内には、片山氏の名前がついたトシノブ・カタヤマ街があり、今年の六月には百周年を記念して、市が改修工事を行った。
 ドウラードス地域においてとても重要な存在であったことが伺える。(つづく、坂上貴信記者)




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