松原植民地=56年目の追憶
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松原植民地=56年目の追憶《11・終》=植民地見つめ続けて半世紀=西尾さん「カフェは自分の子のよう」
ニッケイ新聞 2009年2月4日付け もう一人、初期入植者で今も同地に住み続けている人がいる。和歌山県出身の西尾まさえさん(81)だ。二十六歳の時に、夫と一緒に五歳と三歳の子供を連れて松原植民地に移
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈10〉=今も残る日本人会館=植民地の盛衰見つめ
ニッケイ新聞 2009年1月31日付け 松原植民地への入植開始と同時に日本人会、男女青年会もそれぞれ発足した。和歌山市民図書館サイトによると、青年会は四十六人で、十五キロある植民地の端から端まで道路
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈9〉=移民の生活支えた片山氏=功績伝える「カタヤマ街」
ニッケイ新聞 2009年1月30日付け 松原植民地を支えた人の中で、片山利宣氏(一九一六年一月~八〇年三月)を忘れることはできない。 「日本・ブラジル交流人名事典」によると、片山氏は一九二九年八月
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈8〉=入植者の資金援助に奔走=小野さん「ここはパライゾさ」
ニッケイ新聞 2009年1月29日付け 松原植民地に入植した小野享右さん(75、南麻州日伯文化連合会会長)は大阪生まれ。父親の仁(まさし)氏は鉄道関係で仕事をしていたことから満州へ。その間、小野さん
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈7〉=マ州一の発展遂げる=盛大だった入植3周年
ニッケイ新聞 2009年1月28日付け 移民導入権の申請から紆余曲折を辿った松原植民地だったが、目を見張る発展を遂げてきた。 一九五六年七月六日付けパウリスタ新聞では、入植三周年を前にしてすでに百
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈6〉=陸の孤島ドウラードス=山伐りの費用を援助
ニッケイ新聞 2009年1月24日付け 一九五三年にオランダ船ルイス号で松原植民地に入植した梅田さん。日本では役場勤めだったが、松原の「かばん持ち」をしたことから、近所の人たちにブラジルへ行くことを
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈5〉=日本で松原手伝った梅田さん=「移民事業は国のためだが、親不孝」
ニッケイ新聞 2009年1月23日付け 日本で松原の「かばん持ち」をしていた梅田幸治さん(和歌山、84、モジ市在住)は、一九四一年にクリチーバに移住した兄の梅田礼資さんから松原の手伝いをする旨の手紙
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈4〉=松原とヴァルガス大統領=知られざる親交の深さ
ニッケイ新聞 2009年1月22日付け ブラジルのために立派な日本人が必要と訴えてきた松原は、五一年のサンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約締結以降、辻小太郎氏と移民の導入権を求めていた。五二年
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈3〉=松原安太郎の素顔=「虎のような髭をはやした優しい人」
ニッケイ新聞 2009年1月20日付け 植民地に名前をつけられた松原安太郎とは、どのような人物だったのか――。 五月書房発行の「日本・ブラジル交流人名事典(パウリスタ新聞社発行)」によると、松原(
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松原植民地=56年目の追憶=連載《2》=戦後初の南伯移民=『頑張れッ』各地で歓迎
ニッケイ新聞 2009年1月17日付け 南麻州日伯連合会創立二十五周年記念史「躍進への道」(一九八八年十二月発行)によると、松原植民地には、一九五三年七月のオランダ船ルイス号、八月のチチャレンガ号、
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