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松原植民地=56年目の追憶=連載〈3〉=松原安太郎の素顔=「虎のような髭をはやした優しい人」

ニッケイ新聞 2009年1月20日付け

 植民地に名前をつけられた松原安太郎とは、どのような人物だったのか――。
 五月書房発行の「日本・ブラジル交流人名事典(パウリスタ新聞社発行)」によると、松原(一八九二年~一九六一年、和歌山県日高郡岩代村出身)は一九一八年九月に讃岐丸で来伯し、パウリスタ線ピラチニンガ駅サンタ・カタリーナ耕地に配耕された。
 二年後にはビヤード耕地の通訳を務める一方、借地農として綿作に従事した。その後、マリリアへ移り住み、大農場を経営するまでに至っている。
 経営前は、子供たちを学校に送り迎えするバスの運転手をして金を稼いでいたという。三六年にはカフェ農園に加えて、牧場、製材所、カフェ精選工場、小学校なども建設していた。
 生後間もなくマリリアに移って以来、現在までずっと暮している鎌倉かおるさん(79、二世)によれば、松原の農場は全盛期で千アルケール(約二千五百ヘクタール)で、約二百家族が住居を構えていた。
 松原には三人の息子がおり、末っ子は戦前、勉強のために日本へ行き、戦後ブラジルへ戻ってきた。松原は政府の土地であったリオ・フェーロ植民地(マット・グロッソ州クイアバ市)をタダ当然でもらい受け、売り出した。息子たちは同地に移り住んだ。
 第二次世界大戦が始まってからは、敵国の日本、ドイツ、イタリア三国の人々の財産は政府に接収されたが、松原に関しては対象外になっていた。その理由の一つとして、松原が会計士のアルキメンデス・マニャンエス氏を通じ、当時のゼツリオ・ヴァルガス大統領との仲が良かったから、と鎌倉さんは話す。
 両親が和歌山県出身だったこともあり、松原はよく鎌倉さん宅を訪れていた。「直接話したことはないが、父はよくファゼンダに遊びにいったりしていた。虎のような髭をはやして、いつもニコニコした顔をして、朗らかで気持ちが太っ腹な人だった」と印象を語りながら、「当時のファゼンデイロのような格好をしていた。ブーツを履いて、マフラーを首にかけて、まるでブラジル人のようだった」と昔を思い出す。
 松原が、五四年に日本へ行く前に鎌倉さんの母に「JK(ジュッセリーノ・クビチェッキ)が大統領になったら、ブラジルに戻ってくる」と話したが、数年してから日本で亡くなったとの情報が入ってきた。その後、松原の農場は、売ったか、取られたかで、最後はスペイン人の手に渡ったという。現在では牧場になっている。(つづく、坂上貴信記者)

写真=松原安太郎とヴァルガス大統領(中央の2人)。松原の農場で一家、耕地の人々と(在伯日本人先駆者傳)

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