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第31回県連ふるさと巡り=旧都=歴史あるリオ日系団体との交流=第7回(終)=グランデ島=「バケツで魚が掬える」=鰯で潤った戦前戦後

ニッケイ新聞 2009年3月26日付け

 なにげなく波止場の海面をのぞき込むと、エメラルド色に透き通った水底を、甲羅が四十センチはあるウミガメがゆったりと泳いでいった。
 先駆者の一人、仲真次牛助が入植前に現地視察に来た時、「噂に違わずイーリャ・グランデは魚影が濃く、バケツで掬えるほどだったという」(『リオ百年史』二百六頁)からすごい。今でも前述のように十分にきれいだが、入植当時には、とんでもなく豊かな自然があったに違いない。
 島の入植史を確認すると、「日本人が住みはじめたのは一九三一年のことで、山西逸平を先駆者として、すぐにサンパウロで塩鰯の卸売りをしていた道広、上原牛助、仲真次牛(なかまじ・ぎゅう)、仲真次牛助なども移り住むようになった」(同二百七頁)とある。
 最初は「ダシ粉」と呼ばれる乾燥鰯の粉末、その後、鰯の缶詰産業が起きた。体調を崩した先駆者の山西さんは、一九四〇年に塩鰯や鰯節の事業を蛭田徳弥さん(後のパウリスタ新聞社主)に譲り、さらにその後、蛭田さんの缶詰工場は、仲村ツル子さんに譲られ、当時としては最大規模の生産を六〇年代から八〇年代にかけて行っていた。
 最盛期には、二十二~二十三カ所もの鰯加工工場がたち、一大産業を形成していた。
 同島の最古参の上原ブンゾウさんによれば、最も日本人が多い時で三十家族、一九六〇年代だという。現在は、島とアングラ市内を合わせても三十家族ていどだという。
 しかし、六〇年代後半から徐々に漁獲量が減った。あれほど魚影の濃かった海だったが、長年乱獲を続けた結果、ついに枯渇してしまった。
 八〇年代には工場をたたんで転出する人が増え、八九年頃からポウザーダのような観光業が中心になった。上原さんいわく、現在は日系のポウザーダだけで八軒あるという。
 午後二時、波止場で全員が「ふるさと」を海に向かって合唱し、アングラ・ドス・レイスのホテルに戻った。参加四回目、パラナ州マリンガ在住の草川一郎さん(77、二世)は「テレビではリオといえばファベーラばかりのイメージだが、実際見るととてもきれいだった」との感想をのべた。
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 翌十一日は帰路、昨年創立六十周年を祝ったモジ市のイタペチ植民地へ向かった。会館では、モジ西本願寺の清水円了導師により、先亡者約百二十人を顕彰する物故者法要が厳粛に行われ、本物の位牌が並べられた仏壇に向かい、一行は列になって焼香し、最後に老人クラブの坂本定次会長が閉会の辞をのべた。
 スザノ生まれの武吉行雄ネルソン会長(45、二世)によれば、昨年六回目だった柿祭りは今年から取り止めにする。五月にはヤキソバ祭り、七月にはスキヤキ祭り、十月にもう一つイベントを検討しているというので忙しい。現在六十三家族の会員がいるが、全部では七十五家族ぐらい日系人が同地区にはいると推測される。「四十五周年にやったような日系実態調査を今年もできたら」との抱負をのべた。
 同地在住四十四年の荻野茂さん(87、兵庫)は、「ここは永住の地、ええとこです。遠くから先亡者に線香上げに来てもらってありがたい」と手を合わせた。
 一行は、最後に同地区内にある「花の杜(もり)」公園へ立ち寄った。モジ市はブラジル最大の蘭栽培地であり、年間八十万鉢が出荷される。観光農村化を図るために、芳賀七郎さんが七年前に始めた同公園には蘭即売場があり、一行は最後の買い物に勤しんでいた。
 午後七時半には、サンパウロ市リベルダーデ広場に帰着。三々五々、家族などに出迎えられ、今回も参加者は充実した表情で帰路についた。(終わり、深沢正雪記者)

写真=イタペチ植民地での先亡者供養で焼香する一行




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