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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《1》=武富会長「日本人の歴史残したい」=八紘会館再建への夢=9月にはジュート記念碑建立も

ニッケイ新聞 2009年7月3日付け

 奇祭と呼ばれるアマゾンのカーニバル「ボイ・ブンバ」で世界的に有名となったパリンチンス。六月末には多くの観光客が訪れる町だが、かつてアマゾン経済を潤したジュート(黄麻)栽培の発信地であり、その先鞭をつけたのが日本人だった。一九三〇年、現地を視察した上塚司(1890~1978)は、後にアマゾニア産業研究所を設立。パリンチンス下流の土地をヴィラ・アマゾニアと名付け、〃理想郷〃建設に乗りだした。日本側では開拓の人材育成を目的に、国士舘高等拓植学校(後の日本高等拓植学校)を開校、三一年から卒業生(通称・高拓生)約二百五十人を送り出している。今。パリンチンスでもその歴史を知る人は少ない。〃兵どもが夢の跡〃を訪ねた。(堀江剛史記者)

 マナウスから東に約四百キロ。ゆるくカーブを描いた地平線まで緑が続く。そのなかを大アマゾンが大蛇のようにうねる。
 延々と変わらない景色に、アマゾンの広大さを体感し始めた頃、人口約十一万の都市、パリンチンスの町が姿を見せる。
 記者が訪れたのは、五月上旬。翌月の開催に向け、空港に張られた「ボイ・ブンバ」のポスターが目に入る。
 近寄ってくるタクシーの運転手によれば、セントロまで一律三十レアルと決まっているという。
 とりあえず、「アミーゴがいるので…」とやり過ごそうとすると、「マリオ・タケトミ(武富)か?」と返してくる運転手。マリオ氏はパリンチンス日伯協会の会長。マナウスの空港から連絡していただけに驚く。
 「ここの日本人はみんな知っているよ」と運転手が次々に挙げる名前を聞きながら、荷物をトランクに投げ込んだ。
 街灯が少なく、町は暗い。今年の大水でいたるところが冠水している。
 目抜き通りのホテルに投宿、マリオ氏に早速連絡すると、「今から迎えに行くから、一緒に夕食を食べよう」という。
 待っている間、旅行の目的を聞いてくるホテルの女性従業員に取材の主旨を話すと、関心なさそうな様子を見せ、「六月のボイ・ブンバに来ないと。普段は何もないわよ」と笑った。
 暑い。ホテルを出て通りを歩くと、コカコーラのシンボルカラーの赤ではなく、青の看板が立っている。ビールのKAIZERのものもある。赤(ガランチード)と青(カプリショーゾ)で争うボイ一色、いや二色の町なのである。
 一回りして帰ってくると、マリオ氏がバイクで現れた。パリンチンスではバイクが主な交通手段。モトタクシーも市内一律三レアルと大変便利である。
 挨拶もそこそこに渡されたヘルメットをかぶり、バイクに跨って、わずか五分後。アマゾン川の風に吹かれながら、ベレンのビール「CERPA」で歓迎を受ける。
 武富マリオ氏(52)はウルクリツーバ生まれの三世。マウエス生まれの父と現地人のメスチッソ。アマゾンから出たことがない生粋の〃バイショ・アマゾニネンセ〃だ。船会社を経営する。
 「ジュート栽培を始めた日本人の歴史を残したい」という思いから、十年ほど個人的に調査を行なうほか、西部アマゾン地区の日本人移住八十周年記念事業『ジュート記念碑』(ヴィラ・アマゾニア、九月二十二日)の竣工式の準備も進める。
 マリオ氏の夢は、第一回高拓生入植から八十年目となる二〇一一年に向けた八紘会館の再建だ。
 ヴィラ・アマゾニアの活動本部だった八紘会館は移住事業十周年を記念して建てられた。日本の宮大工が日本の瓦を使った高拓生の象徴的建築だったが、九一年に取り壊され、現在は何も残っていない。
 パリンチンスやヴィラ・アマゾニアの市関係の許可を取る一方、地道に地元でその意義を説いて回っている。
 「NGO団体を発足し、文化活動を行なっていければー」。パリンチンスでも日本語学習熱が高まっていることから、すでに国際協力機構(JICA)に日本人教師ボランティアの派遣を申請、来年から日伯協会の会館で日本語講座も開講する予定だ。
 熱い思いを持つマリオ氏と翌日、ヴィラ・アマゾニアに行くことを約束し、タンバキーのグリルを注文。もちろん「CERPA」も追加した。  (つづく)

写真=(上)「アマゾン発展に貢献した日本人の足跡を残したい」。地道な活動を続ける武富マリオ会長/八紘会館。ヴィラ・アマゾニアの本部。高拓生の象徴だった。91年に取り壊され現在は何も残っていない

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