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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《5》=ジュートの歴史教える尾山学校=3男多門氏「ジュートなければ全滅」

ニッケイ新聞 2009年7月9日付け

 日出ずる国からリョウタがやってきた 川岸にジュートが広がった そうして私たちの心に愛が生まれた――。
 そんな校歌の歌詞を校内に掲げる学校がパリンチンスにある。
 一九七二年に創立した州立高「尾山良太学校(マリア・ヌニェス校長、生徒数七百八十九、Escola Estadual RYOTA OYAMA)」だ。
 校内の壁には、アマゾンの壁画が描かれ、その向かいに掛けられた校歌の歌詞が尾山の功績を称える。
 「ジュート発見の歴史は授業で教えています。生徒全員が知っていますよ」とヌニェス校長は胸を張る。
 〇七年十一月に日本政府の支援で校舎を新築した際には、学校全体で顕彰、文化祭も開いた。
 「こんなものを書いた生徒もいるんですよ」と見せられたのは、尾山氏の肖像画。職員室で大事に保管しているという。
 授業を参観、「リョータ・オヤマは何をした人か知っている?」と生徒らに問い掛けると、はにかみながら頷いた。
     ◆
 尾山良太は、岡山県後月郡出身。アマゾニア産業研究所の岡山支部長でもあり、かねてから上塚司からアマゾン行きを誘われていた。
 長男万馬(かずま)が第二回高拓生だったこともあり、一九三三年に妻の京、子供らを連れ、移住する。すでに五十歳になっていた。
 上塚司は植民地開設時に種を持ち込んでおり、高等拓植学校設立にも携わり、現地の支配人だった辻小太郎もまた、アマゾンのジュート栽培に大きな期待を持っていた。
 取り寄せた様々な種子を試作したものの、ことごとく失敗に終わり、高拓生らもやる気を失っていた。
 しかし、ラモス川沿岸に植えた試作地に枝分かれもせず、花もつけず、すくすくと伸びるジュートが発見される。
 尾山と中内義正のものだった。その生育ぶりを見守る二人。しかし、中西のものは牛になぎ倒され、二本だけ残った尾山の一本も増水で流されてしまう。
 最後に残った一本をカヌーに乗り、見張ったのは十四歳で移住、現在もパリンチンスに住む尾山氏の三男多門氏(89)である。
 「ジュートがなかったら、日本人は全滅していたと思うよ。父は見つけて助かった。パラーのピメンタと一緒よ」
 四メートルほど伸びた最後の一本から種子を採取。これを発芽させ、さらに種を取る―。
 試験の結果などから、上塚はアマゾニア産業株式会社を設立、尾山、中西が増産にかかった。
 「最初の収穫で十トンが取れた。それからは増産、増産でかなり儲かりましたよ」と振り返る。
 一気に息を吹き返した形の高拓生らはもちろん、アマゾン全体にジュート栽培の波が広がっていく。このジュートは、「尾山種」と名付けられ、尾山自身も種子を無料で配布するなど普及に努めた。
 当時、南伯で大規模に生産されていたコーヒーを入れる麻袋の原料は、ほぼ全てインドからの輸入に頼っていた。
 尾山の発見は、アマゾン流域の産業創出に貢献しただけでなく、外貨流出を抑える意味でブラジルに大きく寄与したことになる。(つづく、堀江剛史記者)

写真=(上)ジュート発見の歴史を学ぶ尾山良太学校の生徒たち。中央がマリア・ヌニェス校長/尾山良太の三男多門氏。1933年に渡伯以来、一度も日本に帰っていない。戦前のパスポートを手に

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