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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《4》=高拓生・東海林善之新さん=「アマゾンに来て良かった」=藤川氏の経本を所有

ニッケイ新聞 2009年7月8日付け

 「今もなお鬼哭の声が耳につき わが巡礼の旅は終わらじ」ー。
 藤川辰雄は、同郷山口県の代議士田中龍夫と知己を得たことから、田中が会長となり一九六二年に発足した「日本海外移住家族会連合会」の初代事務局長に就く。
 南米の日本人移住地を数度訪れたおり、夢半ばにして斃れた同胞たちが無縁仏となっているのを知ったことから、さ迷える霊を慰めるため、仏門に入る。法名、真弘。
 辞職後は、供養のため伊豆大島・三原山の富士山の見える山腹に自費で土地を購入、観音堂を建造する。多くの移民らが死ぬ前に「最後に富士山を見たかった」と言い残すことを知ったからだという。
 この地で無縁仏がすすり哭く声を聞いたことから、移住地を巡礼することを決意、加持祈祷を続けるなかで、冒頭の句を詠んでいる。
 藤川氏は一九八六年九月二十日にヴィラ・アマゾニアで姿を消した。その状況から、入水自殺と見られている。
 その約一週間にパリンチンスで藤川に会った高拓生が現在もマナウスに住んでいる。
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 「真面目一本の固い男だったんだろうね」―。東海林善之新さん(94、宮城県)は、曹洞宗系の栴檀学園(現在の東北福祉学園)を卒業し、農協組合で働いていた。同学園の二年先輩には、仏心寺南米別院の初代開教総監だった故新宮良範がいた。
 「その頃は戦争、戦争でしょう」。叔父夫婦が一九一三年にペルーに行ったことから、南米への憧れも強かった。
 移住者予定者らでつくる「植民同士会」が出していた会報で日本高等拓植学校の募集を知る。最後の第七期、それも補欠募集だった。
 「二十三歳で最高齢。みんなに親爺と言われてね」。学校では南米の地理や農業を学んだ。
 「大して役に立たなかったね。警察に注意を受けるほど酒はよく飲んだよ。『アマゾンに行くんだから勘弁してくれ』って許してもらってね」
 幼馴染で同い年のトモヨさんと結婚。一九三七年に渡伯、ヴィラ・アマゾニアから南西に約四十キロにあるアンジラ模範植民地に入る。
 森林で米を作り、川でジュートを栽培した。「言うのも恥ずかしい生活。マラリアにも罹って大変でしたよ」
 東海林さんが入植したころ、すでに高拓生は少なかったという。
 「みんなお金持ちの家の子供でしょう。百姓の経験がないから無理。すぐベレンやマナウス、サンパウロに出た人も多かったんだね」
 アマゾンの奥地にも戦争の影響は及んだ。カヌーでパリンチンスまで税金を支払いに行き、休んでいたところを軍警に捕まった。
 「軍曹がイルカの皮をなめした鞭で叩き、伍長が数えるんだね。四十七回ですよ。日本人が嫌いだったんでしょうな」
 七人の子供に恵まれた。教育のため町に出したが、東海林さんは植民地に残り、ジュート栽培に精を出した。
 「ジュートがなかったら哀れなもんですよ。でも儲けて、なお一層やろうとして失敗、首括った人もいるからね…。高拓生はブラジル人に金を貸してね。返してもらえないんだねえ。私? ずる賢いから貸さなかったね」。
 八六年九月。「高拓生が苦労して死んだところ」だというアンジラ植民地から支流に入ったバヘリーニャの町にいる頃、知り合いの日本人が迎えに来た。
 「パリンチンスに来ているお坊さんが渡したいものがあるって。私が坊主学校を出てたから呼ばれたんでしょう」
 レストランで二人は顔を会わせた。何を話したかは憶えていないが、お経の本を貰って欲しいということだった。
 藤川氏は表紙の裏に名前や日付を書き込み、東海林さんに手渡した。
 すでに自ら命を絶つ日を決めていたのだろう、ヴィラ・アマゾニアで行方不明になった九月二十日と書かれたことに気がついたのは、その死を知ってからだった。
 その後、五十数年後に果たした初の帰国のさい、東海林さんは伊豆大島を訪れ、観音堂を掃除した。「しっかりお参りしましたよ」。
 東海林さんはその後、パリンチンスに移り(妻トモヨさんは八三年に死去)、二〇〇四年まで一人暮らしを続けた。
 「野菜作りをしながら、家事もやって、日本語も教えた。お客さんも多かったしね。私の人生で華の二十年でしたよ」
 現在はマナウスで三女のメリーさんと暮らす。「アマゾンに来てよかった。今はもう死んだ連中のところへ行きたいね」と屈託なく笑った。
 (つづく、堀江剛史記者)

写真=(上)東海林善之新さん。94歳とは思えない記憶力と話しっぷり/藤川辰雄氏(法名・真弘)が残した経本。亡くなった日付が記してあるが、受け取ったのは1週間前だった

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