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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《2》=マリアさん「パパイは高拓生」=現地に残る「赤とんぼ」の旋律

ニッケイ新聞 2009年7月4日付け

 一九二六年。アマゾナス州政府の招待を受け、マナウス市を公式訪問した田付七太・在ブラジル全権大使は、エフィジェニオ・サーレス州知事から、百万町歩の無償譲渡を申し入れられる。
 パラー州政府による同様の要請が競合意識を刺激したことに加え、ゴム産業の衰退を、日本人による農業開発で補おうとしたものだった。
 一行の通訳官だった粟津金六は、強い関心を持った。十三年間のブラジル生活で永住の意思を固めつつもあった。
 そこで神戸高商の先輩で高橋是清・農商務大臣の秘書も務め、海外移住に強い関心を持っていた上塚司に、資金協力者を募る内容の手紙を送る。
 ちょうど上塚の友人で、訪伯の準備をしていた実業家の山西源三郎に相談。粟津と山西はリオで合流、二七年二月、マナウスで譲渡契約を結ぶことに成功する。
 その後、資産状況の悪化した山西と、すでに調査を行なった粟津は相談のうえ、全てを上塚に委任する。
 かくして、一九三〇年、上塚が訪伯。サンパウロで調査団を組織し、アマゾンに向かう。パリンチンス下流に土地を選定するや、マナウスで契約を締結。とって返し、アマゾニア産業研究所の斧下式を盛大に行なう。
 上塚が目指した理想郷は、「ヴィラ・アマゾニア」と名付けられたー。
     ◆
 午前七時のヴィラ・アマゾニア行きの定期便に乗るため、マリオ氏がホテルに迎えに来る。屋台や魚を水揚げする港は冠水している。
 バイクをバルサに積み込み、アマゾンの朝のひんやりした風を頬に受け、約四十分。赤土の波止場に着く。途中の風景も含め、上塚が撮影した当時の映像『アマゾンを拓く』などとあまり大差はない。
 現在のヴィラ・アマゾニアは四十二の地区に分かれ、約一万人が住んでいるという。
 波止場のすぐ近く、八紘会館跡の前に、米や粉洗剤、ピンガなど雑貨を売る木造のキタンダがある。マリオ氏と旧知の女主人は日系二世。
 ドナ・リッタと呼ばれる藤原久子さん(63)は、サンパウロ州タナビ出身。ブラジル人の主人と「理想の場所を求めて」辿り着いたのが二十八年前。
 主人を昨年亡くし、三女のソーニャさん(34)と住む。
 「サンパウロでは綿やミーリョを作っていたけど、住み難い。ここはのんびりしていいわよ。八紘会館? 私が来たときはまだあったけど、廃墟になっていたね」
 そこでーとばかりに、鞄から計画書を取り出し、八紘会館の再建を説くマリオ氏。政府関係者の承認は得ているのだが、地元からの要望が重要となるからだ。
 久子さんによれば、高拓生の家族が時々、訪ねてくることもあるという。
 ほどよく冷えたグァラナを飲みつつ、辺りを見渡していると、老婆マリア・ブランドンさんがキタンダに現れた。全くの現地人にしか見えない。「あんた日本人かい? 私のパパイも日本人だよ」との言葉に驚く。
 高拓生がヴィラ・アマゾニアに入植したのは三一年から三七年まで。
 年齢を聞くと「分からない」というが、七〇歳は超えているだろうから、計算は合う。
 「数年ここにいて、ベレンに行って、そこで死んだらしいけどね…母親は〃MINORU〃と言っていたよ」。リストには、一九三四年の四回生にその名前がある。
 「ここでもパリンチンスでも高拓生が父親っていう人は多いですよ」と久子さん。
 このキタンダは港に近いことから、近隣住民の集いの場になっているようだ。続いて現れたのは、マリア・カルヴァーリョさん(53)。
 「私の両親は日本人と仕事していたから日本語を話していたよ。挨拶なんかよく言っていた。オハヨーとかね。日本語の歌も覚えているよ」。
 そう言って、「赤とんぼ」のメロディーを口ずさみ出したが、両親を思い出したのかその瞼からは涙が溢れ出していた。(つづく、堀江剛史記者)

写真=(上)「サンパウロは住み難いよ。ここはいいところ」。ヴィラ・アマゾニアに28年間住む藤原久子さん(左)と娘のソーニャさん。キタンダを営む/「私のパパイは日本人」と話すマリア・ブランドンさん。自身の年齢は分からないという

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