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「アマゾンの歌」を歩く=(1)=入植当時の場所に今も

ニッケイ新聞 2009年7月15日付け

 ノンフィクション作家角田房子(一九一四~)による『アマゾンの歌 日本人の記録』(一九六六年に毎日新聞社から出版、後に中央公論社が文庫化)は、トメアスー移住地を題材にした小説。
 一九二九年に入植した第一陣の山田義一(よしいち、広島県出身)を家長とする一家を物語の中心に、過酷な開拓生活を耐え、苦闘の末にピメンタ(胡椒)の緑の波を育て上げるまでを描いた。

 今年六月十三日夜、トメアスー文化農業振興協会(文協)の会館前で「フェスタ・ジュニーナ」が開かれていた。
 伝統的な農民風の衣装に身を包み、踊る子供たち。色とりどりの飾り付けが焚き火の炎に照らされ、スピーカーから音楽が流れている。
 「昔の知り合いは本当に少なくなりました。今日も誰も来んでしょうな」。そう言葉を切り、周囲を見回すのは、山田元さん(82、広島)。
 肉が薄く、日焼けした顔貌には、長年の苦労が染み付いたような皺が刻まれている。伸びた背筋が実直な性格をよく表しているようだ。
 「かつての祭りはどうだったのですか」―。記者の質問に、歓声を上げながら走り抜ける子供たちを見遣りながら、「昔は蓄音機とガスランプでささやかにやっていたものです―感無量です」と口を一文字に結んだ。
 現在六万人が住むトメアスー移住地。文協や総合農業協同組合がある中心地「クアトロ・ボッカス」(十字路)の周辺はかつて、南米拓植株式会社(南拓)と山田一家の土地で占められていたという。現在は交通量も多く、商店も農機具店などが建ち並んでいる。
 八十年前―。この地に家長、山田義一(31)、妻スエノ(同)、長男元(2)と次女三江(7)の一家四人が立っていた。長女文江と三女八重子は広島に残した。

 「今からここで暮らすんだねエ……」
 山田義一のうしろで高い梢を見上げていたスエノが、ひとりごとのようにいった。山田も同じ思いを抱いていた。
 山田と妻とは彼らが住むことになった土地の、ほんの一部が切り倒されている原始林の前に立っていた。名もわからない大木が枝を重ねて、ひたすら天に向かって伸びていた。ここは事務所のある十字路に近く、道だけはなんとか切り開かれていたが、家がまだ全く手がつけられていなかった。道に沿って五百メートルおきに、四軒に一つのわりで井戸が掘られていた。移民たちの割り当ては、くじ引きで決められたのだった。


 「もちろん当時のことは子供でしたから覚えておりません。収容所に二カ月ほど入ってここに移ってきたようです。それ以来、私の家族だけがどこにも越さず、ここに住んでおります」。
 最初に入植した場所に五四年に建てた〃ピメンタ御殿〃で元さんは、そう胸を張った。
     ◇
 角田房子はあとがきで次のように書いている。

 「アマゾンの歌」は、平凡な日本農民の集団の記録である。登場人物はすべて実在し、実名である。私はこの中にただの一行も〃つくりごと〃を書かなかった。地味な事実しかないのだが、この平凡な人々の歩みほど、私に日本人の血に対する誇りと自信を感じさせたものはない。

 小説にも登場する山田一家の長男で、現在も同地に住む元さんとともに、今年入植八十周年を迎えた小説の舞台を歩いた。 (堀江剛史記者)

写真=入植当時の山田一家。左から2人目が元さん。中央のスミレさんは入植翌年に生まれ、4歳で亡くなった

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