「アマゾンの歌」を歩く
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「アマゾンの歌」を歩く=(終)=アマゾンの歌、その後
ニッケイ新聞 2009年8月1日付け 『アマゾンの歌』の取材のため、角田房子氏がトメアスーを訪れたのは一九六五年末。―それから四十四年。トメアスーをめぐる環境は大きく変化した。 作家が感嘆した整然と
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「アマゾンの歌」を歩く=(10)=農協理事長、市議も
ニッケイ新聞 2009年7月31日付け 胡椒景気を迎えたトメアスーの生活は一変した。移民の多くは家を新築、それは〃ピメンタ御殿〃と呼ばれた。 いっさい装飾を省いた長方形の総二階に、学校の寄宿舎のよ
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「アマゾンの歌」を歩く=(9)=〃黒いダイヤ〃ブーム到来
ニッケイ新聞 2009年7月29日付け マラリアが蔓延し始めた一九三三年、南拓社員の臼井牧之助(女優小山明子の実父)は、第十三回アカラ移民を引率し、神戸から、はわい丸に乗り込んだ。 船内での死亡者を
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「アマゾンの歌」を歩く=(8)=戦時中は日本人収容所に
ニッケイ新聞 2009年7月28日付け 一九四一年十二月、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの戦争が始まった。伝えられる各地での日本軍の華々しい戦果。マラリアや困窮生活が長く続き、行く末への果てし
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「アマゾンの歌」を歩く=(7)=母の急死、密林での出産
ニッケイ新聞 2009年7月25日付け 精米所で働いていた頃、元さんは結婚する。妻となったのは、今村豊江さん(〇七年に七九歳で死去)。結婚披露宴は、一九四六年五月だった。 「かわいそうな娘じゃない
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「アマゾンの歌」を歩く=(6)=記憶辿り、水車小屋へ
ニッケイ新聞 2009年7月24日付け 働き詰めの毎日を一家は送った。その間にも次男允、和子と昭(赤痢で死去、享年一)が誕生、スエノさんは育児と雑事に追われた。 ある日、水車小屋で精米が遅れている
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「アマゾンの歌」を歩く=(5)=足に残る開拓の苦労
ニッケイ新聞 2009年7月23日付け 入植当時、七歳だった姉三江、二歳の元さんを抱えた山田家の労働力は、義一、スエノさんだけだった。 開拓に加え、育児や家事も切り盛りしたスエノさんの苦労は、「小
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「アマゾンの歌」を歩く=(4)=野菜普及への〃挑戦〃
ニッケイ新聞 2009年7月18日付け 移民たちはただ命をつなぐことだけを目的に、働き続けていた。彼らの皮膚は内部から熱に責められ、外部から赤道直下の太陽に焼かれて、どす黒く濁った色に変わっていた。
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「アマゾンの歌」を歩く=(3)=猛威ふるうマラリア禍
ニッケイ新聞 2009年7月17日付け かつて〃陸の孤島〃と呼ばれたトメアスーに至る交通網は川だった。ベレンまでの道路が貫通するまで、この港が植民地と外界を繋いでいた。 「南拓の事務所があってね。
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「アマゾンの歌」を歩く=(2)=さびれた移民の玄関口
ニッケイ新聞 2009年7月16日付け サンパウロ州の日本移民の功績を高く評価していたパラー州のジオニジオ・ベンテス州統領は一九二三年、アマゾン地域にも日本移民を受入れる用意があることを、就任間もな
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