ホーム | 連載 | 2009年 | 「アマゾンの歌」を歩く | 「アマゾンの歌」を歩く=(9)=〃黒いダイヤ〃ブーム到来

「アマゾンの歌」を歩く=(9)=〃黒いダイヤ〃ブーム到来

ニッケイ新聞 2009年7月29日付け

 マラリアが蔓延し始めた一九三三年、南拓社員の臼井牧之助(女優小山明子の実父)は、第十三回アカラ移民を引率し、神戸から、はわい丸に乗り込んだ。
 船内での死亡者を火葬にするため、シンガポールで下船したおり、胡椒の苗を二十株購入する。
 五年経っても、永年作物を見出せない植民地で試作するつもりだった。到着後、トメアスーのアサイザール試験場にそれを植えた。
 その二年後の三〇年、鐘紡は経営難が続く事業の縮小を断行する。移民らの怒号のなか、当時一万円の私財を残し、南拓社長の福原八郎はトメアスーを去った。
 閉鎖されることとなった試験場ですくすくと育ったわずか二本のピメンタを加藤友治、斎藤円治が貰い受け、自分らの畑に植えた。
 地道にピメンタを育て、その数を増やし、終戦の年には八百本になっていたという。二人は苗を配り、畑の隅で育てる人も多かった。
 トメアスーの人々が、〃福音〃としてピメンタに注目したのは、四七年にあった組合の定期総会の席だったという。
 同年九月から十一月までの事業報告で今まで雑収入でしかなかったピメンタの売上高が米と野菜に次いだのである。
 次回の報告では、ピメンタが七倍の売り上げを記録、全員が主作作物に切り替える。

 ピメンタは蔓科植物で、その栽培にはまず蔓をからませる支柱が必要である。これは腐らない、固い木でなければならない。この支柱は重く、運搬が一仕事である。一台の荷馬車には十本以上は積めない。
 山田は一度に二台の荷馬車を引くことに決めた。これで一回に二十本を運ぶことができる。朝三時から夕方七時まで、彼は二台の荷馬車をひいて黙々と炎天下を歩き通し、遂に目標の千六百本を自分の力だけで運び終えた。

 この畑は元さんがいた精米小屋の近くにあった。「アマゾンの歌」で〃アカラ一番のがんばり屋〃と書かれる父義一さんを「難しい人間であることには間違いない。無口な方ですよ。でも仲人も結構したんですよ。家の中では頑固でも、外ではニコニコしてね」と評する。
 植民地を挙げて、胡椒栽培に取り組んだ。国内の販売拡張と輸出を見越し、五〇年にはサンパウロ出張販売所を開設。
 五二年から、ピメンタの国際価格が急騰、〃黒いダイヤ〃と呼ばれたピメンタブームが起きる。五二年にキロ当たり九十三クルゼイロだった価格は、五四年には倍となった。
 当時の国内消費は千二百トンと見られていたが、トメアスーの生産量は同年、八百トンを記録。当時の組合員数七十八人の総売上高は八億三千五百円に上った。五六年には輸出も開始、まさに黄金時代が訪れる。
 二八年の渡伯前、帝国ホテルで行なわれた壮行会で福原社長は、「植民事業を五年以内に成功させる」と株主らに語った。
 鐘紡の武藤山治社長はそれを制したうえで、「二十年論」をぶった。
 武藤の先見通りの結果となったといえるが、その恩恵に浴したのは、退耕者を見送り、マラリアと敵性国民としての扱いに耐え抜いた六十三家族のみだった。(堀江剛史記者)

写真=山田家のピメンタ畑。最盛期には四万本を栽培した

image_print