ホーム | 連載 | 2009年 | 「アマゾンの歌」を歩く | 「アマゾンの歌」を歩く=(4)=野菜普及への〃挑戦〃

「アマゾンの歌」を歩く=(4)=野菜普及への〃挑戦〃

ニッケイ新聞 2009年7月18日付け

 移民たちはただ命をつなぐことだけを目的に、働き続けていた。彼らの皮膚は内部から熱に責められ、外部から赤道直下の太陽に焼かれて、どす黒く濁った色に変わっていた。野菜組合の用事などでベレン市に出ると、街の人々は「アカラの人だ」と、すぐに見分けた。〃マラリア色〃〃アカラ色〃と呼ばれる顔色になっていたのである。

 「どう言ったらいいでしょう」と元さんは、家の中を見回し、「こんな色ですよ」と鈍く黒光りした家具を指でなぞった。
 「何色って言うんですかね。艶もなくてね。紫色っていうか。父もそのアカラ色になっていました。ベレンに行ったら、『トメアスから来たな』ってよく言われたそうですよ」
 入植当時、南拓が主力作物としたカカオは生育が悪く、米も安価のため収益が上がらなかった。
 三一年、入植時の契約にあった「作物の三割を納入すること」の一項の撤回を求める動きが起こる。
 マラリアの恐怖におののく移民らの南拓に対する不満は限界まできていた。扇動者がいたこともあり、植民地を震わせる一大騒動に発展する。
 「三割争議」と呼ばれ、移民らは実った稲を刈り取ることを拒否、徹底闘争の構えを見せた。
 ベレンにいた福原八郎社長に直談判するため、移民らは代表を送る。そのなかには山田義一もいたが、全員が腰にマラリアの薬瓶を下げていたという。
 最終的に、移民らの要求は受け入れられた。同年、「野菜組合」が移民ら自身の積極的な意志によって設立される。
 ピーマン、キュウリ、キャベツなどを天秤棒に担いで売り歩く姿が注目を集めた。言葉が分からないため、白墨による筆談で交渉、涙ぐましい奮闘ぶりを見せた。
 大根(ナーボ)が主力商品であったため、日本人のことをナーボと呼んでいた時期もあったという。もちろん南拓も支援を怠らず、販売所の家賃や運搬代を負担した。
 北伯一の都市だったベレンの人口は当時約三十万人。野菜を食べる習慣は一部上流社会に限られていたが、トメアスー移民らの必死の努力により、徐々に庶民にも根付いていく。
 生き抜くため、そしてアマゾンの食生活を変える〃挑戦〃でもあった。スエノさんも器用に野菜を作り、組合から奨励金を受けている。
 一方、退耕者が続出していた。三五年に十七家族、翌年は二十家族―。
 戦前の入植者二千百四人(三百五十二家族)のうち、実に七八%がトメアスーを後にした。

 スエノはトメアスーの波止場から船が出るたびに、見送りに行った。もう形見として残す品も尽きた。女どうしが畑仕事に荒れた手をとり合い、くり返し別れの言葉を述べて、涙を流した。波止場からの帰途、スエノはいつも暗い気持ちになった。―うちはいつまでも、ここにおるんじゃろうかー。
 幼い子供ばかりで男手といえば、夫一人の家族では、よそへ行くといっても動きがとれないーと、スエノにはよくわかっていた。だが子供たちが悪性マラリアで死にはしないか、という恐怖を抱くスエノは、やはりアカラを去りたいと考えた。しかし、夫は何もいわない。退耕者を眺めて、黙々と働き続けている。

 「よく(父は)言っていましたよ。『出ようにも金がない』って。『だから頑張れた』とも言っていましたが」
 第一回入植四十二家族のうち、現在もトメアスーに住むのは五家族。その中で唯一、山田家のみが最初に割り当てられた土地に住んでいる。
 その家から、スエノさんが退耕者を見送った港まで十三キロ。
 「現在でこそ車で十分ほどですが、当時は馬車で四時間かかったんですよ」
 三六年に生まれた双子の一人、昭が赤痢にかかり、この道を病院まで運ぶ途中に死んだ。一歳だった。(堀江剛史記者)

写真=現在のクアトロ・ボッカス(十字路)の様子。港から13キロ。かつては馬車で4時間かかった



image_print