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「アマゾンの歌」を歩く=(3)=猛威ふるうマラリア禍

ニッケイ新聞 2009年7月17日付け

 かつて〃陸の孤島〃と呼ばれたトメアスーに至る交通網は川だった。ベレンまでの道路が貫通するまで、この港が植民地と外界を繋いでいた。
 「南拓の事務所があってね。日本人の経営する食堂や商店もあって、かなり賑わっていましたよ」。しかし、車で案内役を務めてくれたトメアスー文協の松崎純事務局長(33、二世)は「初めて来た」という。
 「懐かしいなあ」と元さんは港の前にそびえるサプカイアの木を見上げ、「この木は覚えてますよ。樹齢八十年以上にはなるでしょうが、あまり大きくなっていませんね。ここらへんは土地が悪いんですな」と頷く。
 ー澄んだアカラ川を見て、スエノさんは喜んだという。広島では見ることがなかったベレンの泥色の大河を不安に感じていたこともあったのだろう。しかし、その清流が移民らを長年苦しめることになる。

 マラリアを媒介するアナファレス蚊は濁流の地帯には発生せず、アカラ河のような清流の沿岸だけに発生する。
 入植早々も昭和四年末に、幼児がマラリアの犠牲者一号として死んだ。しかし入植初期の大人にはマラリアの被害を寄せつけない強い体力があった。それが一年、二年とたつうち、植民地の予期に反した失敗続きで、生活難におちいり、移民たちが体力を失ってゆくにつれ、この病気が蔓延した。


 入植から三四年までの五年間の死亡者数は、百九人。そのうち二年を待たず亡くなった幼児は、実に三十八人(三五%)となっている。
 マラリアが猛威をふるい始めた三三年の罹患者数は三千六十五人。当時の移民の数は二千四十三人。つまり一人が何回も罹っていることになる。

 マラリアと黒水病になぎたおされたアカラの惨状は、サンパウロ州をはじめ全ブラジルの日系人の間に伝わり、〃生き地獄植民地〃〃マラリア植民地〃などと呼ばれて恐れられた。

 「そりゃあもうひどかったですよ。震えが来て、四十度近い高熱がでる。それが二週間おき。幾度罹ったことか。キニーネを飲んだら、一時的によくなるんだけど、また高熱が出て。キニーネに肝臓がやられて、じきに黒水病になる人もいましたよ。小便が赤くなるんですよ。〃赤ションベン〃とか〃血のションベン〃とか呼んでいました。それが出たら、二、三日で死ぬんですよ」
 黒水病は黒水熱とも呼ぶ。当時マラリアの特効薬だったキニーネを多用することで発病するキニーネ中毒、もしくはマラリアの異型と考えられていた。南方戦線でも多発し、存在自体を知らない日本の軍医もなす術がなかったという。
 角田房子は帰国後、植民地で看護婦をしていた女性に取材している。移民政策に水をさす結果になることを理由に、黒水病の死亡者も他の病気や事故死として記録されることが多かったことを明かされている。

 当時は七度二分以上の熱のあった患者が死亡すると、その肝臓に先端の曲がった小刀を突き刺し、その先について出た肉片をニューヨークのロックフェラー研究所の熱帯病研究室に送った。このため看護婦は〃いきぎも〃を取るという噂が立ち、古村(註・元看護婦)は何度も、出刃包丁を持った遺族に肉片収集をこばまれた――

 「現地の子供は小さい頃に亡くなるからね。抵抗力のない日本人がなったんでしょう。その肝臓が溶けてなくなっているという話も聞きました。私の家族でいえば、マラリアには、全員罹ったけれど、黒水病は幸い誰もならなかった。父は『生きているのが不思議。仏様のおかげ』とよく言っていました」   
 (堀江剛史記者)

写真=賑わったかつてのトメアスーの港。今は訪れる人も少ない

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