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先人の苦闘伝える日本人墓地=ア・マッシャードで招魂祭=今年も快晴、5百人訪れる

ニッケイ新聞 2009年7月17日付け

 【アルバレス・マッシャード発=金剛仙太郎記者】奥ソロカバナ線アルバレス・マッシャードにおいて十二日、第八十九回招魂祭が開催され、同地の日本人墓地にて開拓先亡者慰霊追悼法要が執り行われた。同祭はア・マッシャード日伯文化体育農事協会(松本一成会長)主催で行われ、プレジデンテ・プルデンテなど奥ソロカバの日系団体や、サンパウロからもゆかりのある人、約五百人が焼香に訪れた。

 「日本人墓地」と書かれた入口の先には真っ白な墓が七百八十四基並び、没者の家族や親戚などゆかりのある人達が先人の御霊を弔いに訪れていた。
 招魂祭は一九二〇年から始まり、四二年の休止をはさみ脈々と続けられ、今年で八十九回目の開催。同墓地は日本人墓地として唯一、州の歴史文化財に指定されている。今まで一度も雨に降られたことがなく、当日は冷え込んだ朝となったが、雲一つない晴天に恵まれた。
 墓地内御見堂での法要は午前九時、同文協日本語書記の小梅川寿男さん(74、二世)の司会のもと、松本会長の開式の言葉で始まった。同文協を代表して和田光美さんが追悼の辞を述べ、続いて汎ソロカバナ日伯文化協会の纐纈俊夫会長(69、三世)は「原生林に挑み、飢餓を忍んで開墾したことは筆舌に尽くしがたい。我々がお互い手を取り合い、日本人墓地を守っていく覚悟」と述べた。
 導師の浄土真宗本願寺派の堅田玄悠開教師がお経を読み上げる中、参列者は次々と焼香をあげた。おばさんが眠っているという仲曽根イネ子さん(二世)は「立派なおばでした。誰も縁のある人がいないので私が参っている。元気なうちはずっと来たい」と語った。
 同市の前身であるブレジョン植民地は一九一八年から「日本人の自営農を」という意図のもと、入植が始まったとされる。星名謙一郎氏と小笠原尚衛氏が共同で経営し、三〇年代には一千家族を数えた。
 ただ、開拓は困難を極め、一九年、当時二歳だった渡辺浅江ちゃんが原因不明の熱病により初の死亡者となった。その後、大統領令により四三年に禁止されるまで、七百八十四人が同墓地に埋葬された。
 日本人墓地として当時の姿で残っているのは南米では唯一、と言われている。墓碑には名前や行年(享年)が記されており、犠牲者のうち三百余人は一歳から三歳の子供だった。松本会長は「食べ物、医者、薬品の不足に加え、母親の重労働が原因では」と述べた。
 お墓は墓石を横に寝かせ墓標を立てたものや、日本の墓の様に段々に積み重ねたものなど、大小様々で、色とりどりの花や線香が供えられていた。
 ア・マッシャード出身者やその家族で構成される「友の会」は、今年もバス一台を貸し切り、サンパウロから約四十人が参加した。祖父、兄が眠っているという宮下英子さん(二世)は「(ア・マッシャードの)みんなと会えるのが楽しみ。墓の前では『帰ってきました』と話し掛けた」という。
 日本人墓地での法要後、旧日本人学校に場所を移し引き続き法要が行われた。四九年、当時の勝ち組を中心に組織された「愛国連合日本人会」によって建立された「忠魂碑」にて、堅田開教師によりお経が上げられた。
 その後は奉納演芸会が学校前にある演芸場にて開催された。途中、前日の雨天の為、到着が遅れた在聖総領事館の関口健治領事が挨拶をした。
 辺りが暗やみ始めた午後五時頃、同協会青年部や関係者により全ての墓にロウソクが灯された。松本会長が「毎年この瞬間は無風になる」と語っていた通り、風はぴたりと止み、八十九回目の招魂祭は幕を閉じた。

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