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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベレン・トメアスー編】=《12》=グアマ=〃緑の地獄〃で水責め=「ドミニカよりひどい」

ニッケイ新聞 2009年9月10日付け

 「グァマへ、グァマへと心が急ぐグァマはいよいか、住みよいか」――「麦と兵隊」の替え歌が、移民船で景気よく歌われ、期待感を煽っていた。(『アマゾン六十年史』井上勝さんの一文)
 胡椒景気が始まっていたトメアスーから百キロほど北上したグアマでは、五五年に移住地の建設が開始された。日本から百二十五家族が導入され、次なる〃イバラの道〃が展開されようとしていた。
 ☆    ☆
 真夜中に突然、耳元でタプッ、タプッと水の音がして目が覚めた。
 忘れもしない旧暦八月一日――。五七年四月に第四次隊五十家族と共に入植していた荒木信秋さん(83、熊本県)=スザノ市在住=の「一メートル半も高床にしてあるから、まさか家の中まで浸水することはあるまい」との確信は、見事に裏切られた。
 妻が「みず、みず」と家の中を泳ぎながら叫んでいるのが聞こえた。
 暗闇で目をこらすと鍋、釜が浮いていた。「十分間で一センチぐらい上がっている」ように感じた。家の外まで泳いでいって舟を持ってきて、いざという場合に備えたが、水位は下がり始めた。
 翌朝、水田を見に行くと、ようやく育ってきていた稲の大半が流木に倒されていた。
 「こんなところで百姓はできん」。妻、弟の三人家族は即断したが、実際に逃げ出すまでに一年十カ月かかった。
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 各農場には間口二百メートル、奥行き一キロ、ざっと二十町歩が割り当てられた。入植当時は知るよしもなかったが、そこは農業にはまったく不向きな低湿地帯だった。
 三次で入植した大川義則さん(香川県)は、米作り日本一として表彰を受けたような有名人だったが、やはりアマゾンの大自然には歯が立たなかった。
 荒木さんが大川さんのロッテに遊びに行ったとき、「手も足も出ないと言っていましたよ。この土地で金を使うな。この先のために取っておけと助言してくれた」と思いだす。
 その間、病気や水難事故で何人も亡くなった。第四次隊のみながそんな感じで浮き足立っている時、半年遅れで五次隊十五家族が入った。
 「五次の人たちが川向こうから荷物を運んでいる時、舟が沈んだんですよ」と振り返る。奥さんの目の前で、泳げない家長ら四人が犠牲になった。「あんなところに入れたのが、そもそもの間違い。ドミニカ以上にひどかったんですよ」。
 その時の経験は後に『うしおの河』という短編小説に結晶し、七七年、第二十二回パウリスタ文学賞を受賞した。
 婚約したばかりの若い二人がその犠牲者の中にいた。小説では「二人の体はほとんど寄り添うようにしていた。ミキはうつ伏せになって、髪の毛がゆらいで拡がっていて、マンボズボンがはち切れそうになっていた。そして無い力を出して懸命に泳いだであろう桃色のブラウスが、上にずり上がって腰の辺りをあらわにしていたが、あのキメ細かい肌も、既に光りを失って死斑が表れていた」と描写されている。
 荒木さんは「あそこに書いてあることは見たまま、本当のことです」と証言する。
 入植して四カ月目でマラリアに罹り、最後にはアメーバ赤痢にもなっていた。
 日本で見てきた海協連の宣伝では、「巡航船が毎日学校まで児童の送り迎えをする」とあったが、「実際に入植した場所は、とても船も近づけないマットでした。しかも毎日二回も潮の満ち引きがあり、潮目に逆らって学校の通学など出来るわけがない。そんな調査すらされてなかったんですよ」とまるで昨日のことのように憤る。
 収穫後、親友の家族と共に逃げ出した。植民地当局のモーターボートが逃亡者の監視のために定期的に通った。もし見つかれば、家財道具を倉庫に強制的に保管されてしまう。しかし、待ってはいられない。
 監視ボートが通り過ぎた隙をみて「それっ!」とばかりに、持てるだけの荷物で河に乗り出し、ベレン近郊に逃げた。
 サンパウロ市に向かう飛行機の窓から、偶然グアマが見える。「陸地というより中州のような場所。あんなところに入れられたのか…」。今更ながらに愕然とした。(続く、深沢正雪記者)

写真=荒木信秋さん

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