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古橋廣之進の思い出=セーター編んだ田中さん=多田邦治さんが書いた=トビウオ秘話=橋爪と二人分を一晩で

ニッケイ新聞 2009年10月17日付け

 第2次大戦後の水泳界で、次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋廣之進(静岡県浜松市、1928年―2009年)。1950年3月、来伯した彼のおかげで戦後初めて公の場で日の丸が掲揚され、それを見て力づけられた移民は多い。今までまったく知られていなかったが、実はその時に、サンパウロ市で彼にセーターを編んだ女性がいた。この秘話を、今年8月2日にローマで客死した古橋を偲び、多田邦治さんが自ら編集発行する月刊『くんだり』3号に書いた一文を以下、許可を得て転載する。(編集部)

 フジヤマのトビウオ、古橋が逝った。今の日本の人々そしてブラジルの日系人もほとんど知らないが、この古橋とブラジルとはかなり深い縁で結ばれている。そしてブラジルに旅行しようとする人にいくつかの大切なことを示唆してくれる。
 まず短歌雑誌『椰子樹』の2004年12月号から田中朝子の文章を引用する。
 ・・・今年はギリシャでオリンピック大会が開催された。開会式典のテレビ放映を観ていると、不意に1950年の或る日を思い出した。
 当時のサンパウロ市は「霧の都」という名称で呼ばれていた。その日は呼称どおりに霧がふかい寒い日であった。
 午前10時ごろ、女性ばかり居る編物教室に、突然日系人の男性に伴われて二人の青年が訪れて来た。青年の礼儀正しい初対面の挨拶や態度で、コロニアの青年ではないことはすぐに察知されたが、名前を知って驚いた。
 その一人は水泳の400メートル自由形で世界新記録を出して世界に名声を広めた古橋広之進選手、もう一人は橋爪四郎選手で、ブラジルスポーツ界よりの招待で来伯したのであった。
 熱帯地の冬は寒くないと思い冬物を持参していないので暖かいセーターが欲しいとのことであった。私は光栄に思い、「編物教室ですから製品はありませんが、急いで作ります」といって二人の上半身の寸法を計り、翌日の午前10時に手渡す約束をすると、二人はとても喜んで帰られた。
 翌日約束の時間に二人が来られた。不安な思いで着ていただくと、一分の欠点も見えぬ出来栄えで安堵を得た。鏡の前に立った二人は体格が優れている上に、スポーツで鍛えた姿勢は正しくてセーターはいっそう映えばえと見えた。二人ともとても気に入ったようで、丁寧に礼を述べて、その上に上着を着てかえられた・・・
 古橋らは2月(多分20日ころ)に日本を出発し、空路ブラジルに入った。到着は3月4日となっている。サンパウロでの競技会は23日でその後地方都市(リベイロンプレット、マリリア)での競技会を経てリオ・デ・ジャネイロがブラジルでの最後の競技会だったという。従ってサンパウロに滞在したのは3月4日から20日間くらいだろう。
 さて、ブラジルに来ようという人から「寒さはどのくらい」と必ず聞かれる。これの答えが上の一文なのである。ただ、地球温暖化がまだ言われていなかった60年前とはいえ、秋口に過ぎない3月のサンパウロが、フンドシひとつで鍛え上げた彼らにとってそんなに寒かっただろうか。
 たまたま寒い週に遭遇し、これからさらに南のウルグアイ、アルゼンチンと転戦する彼らが念のためにとセーターを求めたのではないかとも推測する。
 さて大事なのはこれからである。古橋自身の言葉を引用する。

リオで飲んだ運命の水…

 ・・・1950年2月から約3カ月間3人の仲間と南米5カ国を回りました。現地日本人会の招きでした。ところがその最初の訪問地ブラジルで、私は思いがけない不運に見舞われました。
 「生水は飲むな」といわれていたので、ガラナ(清涼炭酸飲料水のひとつ)を飲んでいたのですが、飲んだ後がどうもすっきりしない、そこでやっぱり水がいいと思い、リオ・デ・ジャネイロのホテルの部屋に瓶に入っている飲料水が置いてあったので、ボーイに「これは消毒したのか」と聞いたら「消毒してあるから飲んでいい」というので、ついコップ1杯の水を口にしました。
 ところがその晩から猛 烈な腹痛と下痢におそわれ、アメーバ赤痢とわかりました・・・
 かくして水のヒーロー古橋がコップ1杯の水で選手生命を絶たれることになった。彼の言う「思いがけない不運」とはなにか。
 ついコップ1杯、と言う彼の言葉に安易に同調してしまっては余りにもやりきれないし、スポーツマンとしての実績に加え、このくらいの寒さでセーターを求める慎重な彼に、つい、なんてことがあるはずがない。
 真の不運とはブラジル滞在1カ月による相互信頼感の増幅と緊張感の消滅のなかで「ボーイに聞いたこと」ではないだろうか。
 ブラジル人はまことに親切で、正直や正確であろうとする以前に、相手が絶対に不安を持たないような言葉を選ぶ。これが大人であろうと子供であろうと、また教養の有無にかかわらず実にたくみなのだ。
 たくみ、というといささか悪意のにじむイメージが生まれそうだが、そうではない、心底からの善意、言うならばブラジルの文化の一面なのだ。
 「消毒してあるから飲んでいい」と言われたころには、彼の心の中には、ここで飲まなければボーイ、ひいては招待してくれた国民の好意に逆らってしまうのではないかという日本文化的空気が、短いやりとりのうちに出来上がってしまっていたのだと思う。
 この文化の影、もしくは隙間とでもいえるところに、つい、という魔が滑り込んでしまったこと、これこそ彼にとっての「不運」だったと思うのである。
 いま仮に時計の針が逆に回ったとして抗議するとしよう。ホテル側からは「水の用意をしたが、飲むと決めたのは彼だ」とこれまた実に文化そのものの返事があり、経営者が正義の味方のフラッシュを浴びながら頭を下げるということはまかり間違っても無い。
 話をサンパウロのプールに戻し、古橋の話を続ける。
 ・・・サンパウロ市の中心のパカエンブーというサッカー場の隣にある大きなプールで試合をやったのですが、アデマールという州知事が日の丸を揚げてよろしいと初めて許可しました。
 戦後、海外で日の丸の掲揚が認められたのはこれが最初だったそうで、日の丸を揚げるとそれを見たくて大勢の日系人がサンパウロに集まって来ました。
 当時は奥地も含めて四十何万人いたのですが、彼らがトラックに乗ってどんどんサンパウロに集まって来ました。水泳場が大騒ぎになる、記録はぞくぞくと出る・・・
 すなわち、古橋はオリンピックでは日の丸を揚げられなかったが、このブラジルで戦後海外で初めての日の丸掲揚をなし得たのである。この時の様子を『移民の生活の歴史』から引用すると、
 ・・・枢軸国であった日本の国旗を掲揚するかどうかが政府で議論されたが、サンパウロ州知事が日本人の自信を回復させるためと議会を説得した・・・ 日章旗が揚がる。折から「君が代」の吹奏、すすり泣く声が聞こえる・・呆然自失の邦人をめざますように拍手のあらしがブラジル人側からおこった…
 その時の写真をみると十字に組んだポールがあり、てっぺんにブラジル国旗、右側にサンパウロ州旗、そして左側に日の丸がはためいている。
 この日の丸を仰いだ移民達から見れば、国旗国歌法の制定で大騒ぎする現代の日本は、はたして祖国なのか外国なのかわからないだろう。
 さて、冒頭の田中朝子さんに古橋の逝去を知っているかどうかを聞いてみたいと思った、が、90歳を越えた今、お話の出来る状態ではないとのことであった。
                    * * * * *
 日本水泳選手見んものと柿の木に登りし数人の邦人    小笠原正好歌集「柿の木」(一九五〇年)、歌誌「アララギ」掲載
                      ☆   ☆
 古橋が顔の滴を手で払うたまゆら君が愛しき面輪    中井すみれコロニア万葉集(1950年)

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