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グランデ島の今=エメラルドの海と鳥居の歴史=連載(上)=鰯工場がポウザーダに

ニッケイ新聞 2010年1月23日付け

 日本移民とのつながりが深い島――土砂崩れ災害から2週間後の現場に降りたって、まずそう感じた。リオ州イーリャ・グランデのバナナウ海岸の船着き場には鳥居が建ち、日系のポウザーダが6軒も集中しており、現在最も多く日系人が住んでいる場所だ。かつて海から離れた植民地に住む日本移民が常食していた鰯(いわし)の缶詰の大半は、この島の工場で生産されていた。弊紙の前身の一つ、パウリスタ新聞の蛭田徳弥社長(故人)も工場を所有していたことは有名だ。元旦未明の土砂崩れ事故を契機に、改めて日系人の関わりを調べてみた。(長村裕佳子記者)

 16日午後1時半、快晴に恵まれ、陽光を反射してまぶしい海面を蹴るように、小型船はバナナウ海岸へ向かった。船は海岸沿いに進み、晴天の下で浅瀬に見える海のエメラルドグリーンが目に飛び込む。
 水面は透き通り、波止場に近づくと水深10メートル以上も見え、黒い小さな魚の群れにパンをちぎってなげると、水面が泡立つように魚で埋まった。よく海底を見ると、ウミガメがゆっくり泳いでいる。
 今ではブラジル代表サッカー選手のロマリオや、グローボテレビ局の有名俳優、政治家のなどの別荘を近くの島々に散らばる、いわゆる高級リゾート地になっているが、ここはかつて鰯の漁場として有名だった。
 バナナウ海岸の船着場には、観光客を迎え入れるように鳥居が建てられている。その背後にあるのがポウザーダ・ド・プレット、同海岸で一番古いとされる鰯工場がかつてあった場所だ。
 この海岸には、沖縄系子弟を中心に6軒の日系ポウザーダがある。その日たまたま、サンパウロ州や近隣の海岸から、心配をした親戚らが同ポウザーダに集まっていた。
 その中にいた仲真次テルコさん(なかまし、旧姓シネ、73、二世)は、「物心ついた時から、家族と共にこの鰯工場で働いていた」という。サンパウロ州パラグアスーで生まれ、1940年、3歳の時に家族と共に島に移り住んだ。
 『リオ州日本移民100年史』(08年、同編纂委員会、205頁)によれば、日本人がイーリャ・グランデに初入植したのは1931年。山西逸平が先駆者となり、仲真次(なかまし)家、上原家、波田真間家らが続いた。第2の先駆者と言われるのは仲真次牛助で、1933年同バナナウ海岸で鰯漁を始めたとされる。
 当時、本来は外国人に海岸付近の土地購入を許すことがなかったバルガス政権の時代だが、牛助の行う鰯漁の重要性に鑑み、特別に1万2千平方メートルの土地購入が許されたと記載される。
 牛助は同海岸で最も古い鰯工場「ナカマシ・フィーリョス」を建て、サンパウロ州の日系人向けにイワシの塩漬けを瓶詰(10キロ)にして出荷した。故郷の沖縄県津堅村からも数人を呼び寄せ、多いときは30人も働いていたという。
 島全体に約20の工場が作られたが60年代後半には同漁がふるわなくなり離島が進み、80年代後半、観光客向けにポウザーダへと作り変えられた。同家の資料によれば「漁獲量の減少と政府の新たな環境法制定の影響を受け、仲真次家の工場は87年に閉鎖を辿った」と記されている。(つづく)

写真=鰯工場「ナカマシ・フィーリョス」が作り変えられたポウザーダ・ド・プレット/バナナウ海岸の歴史を語る仲真次テルコさん

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