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「ブラジルに故郷作ろう」=福博村の歩みを講演=大浦顧問が人文研例会で=「戦後は準二世が主導した」

ニッケイ新聞 2010年5月20日付け

 13日夜、文協ビル1階で行われたサンパウロ人文科学研究所(本山省三理事長)が主催する研究例会『福博村75年の歩み』で、スザノ福博村(上野ジョージ村長)顧問の大浦文雄さん(85、香川県)が1時間にわたって講演し、今も独特の存在感をもつ同地の歴史を内部からの視点で語った。来年は記念すべき80周年を迎える同村を知る良い機会となり、約40人が集まり熱心に聞き入っていた。

 1935年、大浦さんは11歳の時、創立4年目の福博村に入植した。創立期を知る数少ない草分けだ。同村の歴史は日伯新聞社主の三浦鑿から誘われて、31年に原田敬太ら2家族が入植したことに端を発する。
 「戦後は準二世が引っ張ってきました」。終戦直後の47年ごろ、男女青年会が復活した。同会活動の中心は準二世層で「戦争に負けた。どうしたらいいか?」を毎晩議論し、「ブラジルに立派な日本人の故郷を作ろうじゃないか」という結論に達し、まずは村の実態を把握すべしと48年当時には珍しかった調査に取りかかった。
 戦時中もブラジル学校は続いた。生徒や父兄会の大半をしめたのは日系人だった。終戦直後、「準二世でポ語ができた私は、日本語で読んでいた世界文学、ドストエフスキーやトルストイの話をブラジル人教師にしたら、『おまえはどこでそんなものを読んだ?』と驚かれた。日本語でも十分教養をつけられると自信がついた。それなら日本には帰れないが、ここで生活を豊かにできる」と考えるようになった。
 年少者への外国語教育が禁止されていた時代だったが、公立校のレベルが低かったため、47年に日本語学校の4分校を山奥につくって隠れて授業を始めた。その状況を憂慮した大浦さんは、副警察署長に直談判に行き、腹を割って事情を説明すると、「今の話は聞かなかったことにする」と黙認してくれた。
 57年頃、聖市に出た若者が戻ってこない現象が目立つようになり、「町との遊離をなくすため、農村の近代化を」と考え、新会館建設の議論が高まった。これも準二世らが中心になって資金集めから建設まで進め、今も使われている会館が完成した。
 この79年間に17人の村長が就任し、最初の一世から準二世、二世を経て三世の世代になっている。当日は同村から元村長ら5人が参加し、大浦さんは「こんな多彩な後継者に恵まれ、ありがたい」と紹介した。
 畑勝喜さん制作のDVD『75年の歩み』が30分間上映され、「大浦さんと二人三脚で作ってきたが、3枚組のような大作は初めて」との苦労談を披露した。
 会場には福博村の統計調査のグラフや過去の写真、同村の原点をしめす6句「この村の祖となる夫や入魂祭」(黒木ふく)などが展示された。しげしげとそれを眺めていたJICAシニアボランティアの半澤典子さん(65、栃木)は、「実際に生き抜いてきた人ゆえの、偽りのない言葉が心に響く。移民社会だからできる研究会だ」と感心していた。

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