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学移連創立55周年=海外雄飛を夢見て=羽ばたいた学生たち=連載《8》=変わる「移住」の位置づけ=60年代の規約改正問題

ニッケイ新聞 2010年6月18日付け

 学移連の活動は派遣のほか、合宿や総会も定期的に開かれ軌道に乗っていたが、一方で全国にあるサークルの名称や内容など、少しの違いながら多様化が見られてきた。やがて主旨に合わず脱退したり、参加しない〃幽霊サークル〃が増えてきた。
 そのような中、60年代中~後半は連盟の意識統一、研究体制の確立を第一の目標として活動した。記念誌によると、学移連に加盟しているサークルを2つのブロックに分ける「ABブロック化」が66年、GLC(グループ・リーダーズ・キャンプ)で提案された。
 Aブロックは移住を一義的に捉え、将来の移住を考えた「移住研究」。一方、Bブロックは海外諸国を研究対象とし、海外に対する興味、関心を満たす「海外研究」である。しかし、連盟本部は各サークルをまとめきれず、根本的な解決にはならなかった。
 その後、67年に提案されたのが、「地域圏研究法」だ。記念誌によれば、世界を地域ごとに分け、各サークルの特殊性を発揮し、移住に焦点をあてながら後進国を総合的に研究するものだった。全国に散らばる各サークルの研究は、本部の研究部がまとめていた。
 しかしこれも頓挫した。各サークルに研究に対する姿勢が出来ておらず、結局理論だけが先行し、形にならなかった。連盟本部が全国にあるサークルを、「移住」という概念でまとめようとこだわった結果であり、やがて学移連の目的から「移住」を外そうとする動きが生まれるのは自然だった。
 翌68年の全国総会で規約第三条の改正案が関西支部から提案された。
 規約は学移連創立時(55年)に制定されたもので、五章十九条からなる。話題として上がったのは「第二章、目的および事業の第三条」、すなわち「本連盟は海外移住に関する理念の研究および実践を通じ、海外移住思想の啓蒙並びに海外移住の促進を図ることを目的とする」の部分だった。
 関西支部によれば、移住という言葉が学生を遠ざけ、この条文が学移連の発展を阻害するという。これに対し関東支部は、「現状の第三条を固守し、移住者減少の要因と現状を認識しつつ、今後の海外移住を真剣に見つめ、その価値を認識し一般社会に啓蒙し、また自ら実践すべく、今後の学移連活動を続けていくべきである」と主張した。
 東北・北海道支部は「海外を媒体として研究会を構成し、海外諸問題の研究・実践をするためにも、規約の改正に賛成である」としている。
 前年67年には南米第8次団と共に、カナダ第1次団が出発、徐々に派遣先は広まっていた。この問題は時代を反映しており、学生たちにとっては日々の活動に直結することで、合宿や総会で毎回話し合いがもたれた。
 規約第三条は70年の全国総会で次の通り提案され、可決された。「本連盟は国際間における人間の移動について原因分析をなすとともに、広く海外問題を追及し、その中で正しい人間の移動のあり方を考察し実践することを目的とする」。
 記念誌によれば、「新規約の意味するものは、『移住』の拡大解釈である・・・移住というものを永住だけに限定せず、技術指導、海外駐在をも含ませた・・・」とある。この改正をもって、イスラエル、オーストラリア、東アフリカへと派遣地域の拡大が行われた。
 また、派遣団の名称も「海外学生総合実習調査団」と改められ、声明文では「移住とは移り住むことであり、それが長期であろうと短期であろうと、また永住であろうと、地域がどこであろうと、移り住むということは全て移住である」と述べ、「学移連はその、移住という行為を通して世界平和を実践せんとする」と打ち出している。
 さらにこの時期、個人加盟制が導入された。今まで学移連はサークル加盟が原則だったが、連盟員の減少と、実際は個人参加に近いのでは、ということから、70年から変更となった。転換期を迎えていた学移連は、新しい一歩を踏み出すこととなった。(つづく、金剛仙太郎記者)

写真=弘前大学での総会の様子(1965年5月)(日下野良武さん提供)

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