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ジャクチンガ会=仲間集まり良き日を偲ぶ=笑い声響き旧交温める

ニッケイ新聞 2010年10月16日付け

 「毎年この日を楽しみにしているよ」。サンパウロ州ポンペイア近郊にあったジャクチンガ植民地出身者の集い「ジャクチンガ会」の第14回親睦昼食会が、12日にサンパウロ市の青森県人会館で行われ、約70人が集まり、わきあいあいとした雰囲気の中で、そんな声があちこちで聞かれた。
 最初に先亡者に一分間の黙祷が捧げられ、続いて森西茂行さん(89、徳島県)=イタチーバ在住=の音頭で乾杯をし、一品もちよりの皿に箸を伸ばした。
 「14回全部来ているよ」と笑顔を浮かべるのは田中工(たくみ、82、熊本)さん。妻・美恵子さん(77、二世)とは同植民地で出会い、お互いにサンパウロ市に出てから結婚した。「ジャクチンガ同士話が合うし、兄弟同士で結婚して、みんな親戚だったから」と工さん。
 仲間万里江さん(まりえ、67、同植民地生まれ)も「幼馴染の友達に会えるから楽しみにしている。でも期待している人が来なくて残念。みんなに参加して欲しいですね」という。
 浅野美和子さん(70、二世)も「あそこに20年間いました。日本人ばかり、とてもいい時代でした。最初ブラジル学校に入った時、先生が何言っているか分からなかった」と笑う。「少年キング、少女クラブ、キング、平凡、明星、主婦の友とか、みんな各家で違う雑誌をとって回し読みをしていました」。
 6歳で渡伯した鈴木妙子さん(たえこ、83、北海道)は、「戦争がはじまって日本語学校いけなくなって、先生が自宅まで教えに来てくれた。でもみんなに会えなくなって子供心に学校ほど楽しくなかった。こうやって昔の仲間が集まるのは何より楽しい」と語った。
 34年に13歳で北海道から家族で渡伯した森西茂行さんは、「子供の頃にきて畑仕事を手伝い、弟を上の学校のやったのが多かった。僕らのような準二世が日系社会の底支えする力になっている」と振り返る。
 50年3月、古橋広之進、橋爪四郎、浜口喜博ら日本の水泳チームが来伯し、近くのマリリアの大会でも泳ぎ、新記録を作った。「古橋が新記録を作った時、市議だった野村丈吾が喜びのあまりプールに飛び込んでいたよ」と森西さんは懐かしそうに思い出す。
 ジャクチンガ農場内で34年に生まれた国井精さん(つとむ、74)も、マリリアまで見に行った一人だ。「戦後初めて、3人の日本人が胸に日の丸のついたユニホームを着ている姿を見て、感動したのを今もはっきりと覚えている」と目に涙をうかべた。
 一千アルケールの大農場主のララ・カンポス氏が、日本移民だけに300アルケール分の土地を売って同植民地が36年に創立されたため、日本人ばかり百家族が暮らす珍しいところだった。日本語学校も3区に分かれており生徒数も多かった。親世代の多くは鬼籍に入り、現在この集いに顔を出しているのは当時の子供世代。土地が痩せた50年代中ごろ以降、サンパウロ市などへの転出者が増え、90年頃に最後の一家族も離れたという。
 食事の後、山矢三郎さんらが寄付した日本着などの景品でビンゴをして笑い声が響く楽しい時間を過ごし、来年の再会を誓った。

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