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洗濯屋から裁判所の判事に=岡本さん、一世では唯一=「日本なら成れなかった」=和歌山の親族もびっくり

ニッケイ新聞 2010年11月25日付け

 「日本にいたら判事には成れなかったかもしれない」。日本人一世で唯一、裁判所判事になった岡本正三さん(81、和歌山)に、興味深いその生涯を聞いてみた。戦前にパウリスタ延長線の第一昭和植民地に入植し、戦後出聖してからは裸一貫で洗濯屋を始めて、20代で中学に行きなおし40代で大学へ、50代には夢の判事になった。定年後に故郷和歌山に帰ったときは親族一同が集まり、数十年ぶりに旧交を温め、判事になったと聞いて驚いたという。帰郷を錦で飾った人生を地で行くエピソードだ。

 和歌山で青物問屋を営んでいた父に連れられ、1934年に家族で渡伯した。正三さんは当時まだ5歳。最初はモジアナ線クラビーニョスのサンジョアン耕地に配耕されたが、「ブラジル人の監督がフォイセ(鎌)を振り上げて脅して仕事させるんですよ、まるで奴隷扱いでした」とふり返る。
 義務農年を終えた36年、マリリア近くの第一昭和植民地に入植した。「日本人ばかり130家族もいた植民地で勝ち組ばかり。親父からも『すぐに日本帰るんだから勉強なんかせんでいい!』と言われた」という。
 戦争中の記憶も鮮明だ。「ある晩、夜中にしょうべんに起きて空をみたら明るくなっていたんで『何だろうな』と思った。翌朝聞いたら、隣の末永勇さんの養蚕小屋が焼き討ちされたと言うんでびっくりした。紙に『天誅組』と書いて、焼かれた小屋の傍においてあった」。自宅の続きに養蚕小屋があったので、もし焼き討ちされたら住む所がなくなると心配した父親は、すぐに養蚕小屋だけ自ら壊した。
 戦後、「マリリアの吉田写真館では日本が勝ったかのような写真ばかり売っていた」という。「日本の軍人が並んだ写真を見せて、この人たちが世界の支配者になるって説明され、一枚買って親父に見せたら『やっぱり』って喜んでました」。
 46年に出聖して叔父のところで一年間、洗濯屋の修行をした。翌年独立して、親を呼んでカンブシ区で開業した。昼間は忙しい洗濯稼業の傍ら、アルファベチザソンの学校に通い始め、夜間の中学と高校を卒業した時は27歳だった。75年から82年まではパウリスタ洗染業者協会の会長としても活躍した。
 その間、妹を医科大学に行かせて医者にさせたら、今度は「お兄ちゃん、私が払うから大学に行きなよ」と言ってくれた。一年間、予備校に通い、FAAP経済学部に入学した。「夢でしたから、嬉しかったですよ」。卒業時はもう47歳だった。
 判事になれば、一生現役時代の給与が年金としてもらえると聞き、さらに一念発起してFMU法学部に入学し直した。「58人の入学枠の中、3番で合格」と当時の興奮を思い出す。49歳で帰化し、第29労働裁判所で補充判事6年間、正判事を5年間務め62歳で定年退職した。
 「日本生まれでブラジルで判事になった人は他にいません。私だって日本にいたら判事にはならなかったかも分らない」と感慨深げ。定年してから故郷の和歌山を妻と訪れた。「親戚が40人ぐらい集まってくれて歓迎してくれた。判事の証明書を見せたら、みんなびっくりしていた」。
 二世の判事でもまだ数人しかいない。一世では岡本さんただ一人のようだ。日本語ばかりの植民地で育った準二世のハンデを跳ね飛ばし、裸一貫洗濯屋から判事になった生涯には、移民ならではの開拓精神が刻み込まれている。

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