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イビウナ庵便り=中村勉の時事随筆=11年1月17日=公害問題

ニッケイ新聞 2011年1月19日付け

 公害という言葉をはじめて聞いたのは、確か半世紀前の学生時代に読んだ都留重人氏の本だったと記憶している。外部経済という概念とセットだった。Off-balanceという言葉も新鮮だった。外部経済の内部化、或いは社会的バランス・シートという考え方も出てきた。Engineeringという用語も盛んに使われ始めた。
 今振り返ると、これらの用語は相互に関係していたように思う。即ち、効果には費用が必ず伴うので、費用を正確に計算し、それに対する効果を評価するのでなければ、真の対策は生まれてこない、という考え方だ。公害という外部経済を内部化しないで、経済成長を得意がってはならない、あるいはコミュニテーへの負荷を含めた「もう一つのバランス・シート」Social B/Sを企業は公表すべきだ、等という主張だ。企業会計では、オフ・バランス項目に監視の目が光りだした、と言える。
 私が若手社員時代に水俣病が発生し、先輩の一人が水俣病問題に深く関わった。その時、水俣公害の本質は、①たれ流しの水銀濃度が袋湾内で異常に高くなったこと(大海の一滴であれば「問題なかった」ことを理由に「流しても良い」とのご都合主義的強弁を弄して、閉ざされた袋湾に「たれ」流し続けたこと)②チッソの製品で恩恵を受ける人と害を被る人が同一人であれば、費用対効果が明確になり、決してこの種の愚行は起こらなかっただろう、と教えられた。
 環境問題について、排出権取引(売買)を通じて解決策を求めようとする考え方は、オフ・バランスだったコストを企業の貸借対照表に記載し、国及び企業のSocial B/Sを作成しよう、という試みだ。しかし、排出権売買は他の証券化取引と同様に金融危機の原因になりかねない。又、受益者=被害者であり得ないから問題解決の手段にならない、と思う。例えば、中国の排気ガスの被害者(国)が中国製品の恩恵を受けるとは限らない。地球の人口は明らかに過剰だ(=環境問題)し、これを可能にしたのは科学の進歩だ。とすれば、手放しに科学の進歩は喜べない。「核戦争→生物滅亡」の構図をもたらしたのも科学者だ。科学進歩の恩恵対コスト計算で、恩恵>コストが常に成り立っていると考える科学的根拠はない。そこにあるのは、科学に対する信仰だけだ。これは宗教以外の何ものでもない。
 核電力の費用対効果の計算も存在しない。従って、賛否は永遠に分かれたままだ。安全性に問題なければ、核発電炉も核廃棄設備も消費地(例えば、東京)につくれ、というもっともな意見が地方にある。受益者=被害者の考え方だ。期待の小型炉が出来れば、核発電炉は消費地に分散できるし、そうなるだろう。

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