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イビウナ庵便り=中村勉の時事随筆=11年2月7日=予測

ニッケイ新聞 2011年2月9日付け

 今、中東・北アフリカで起っている革命を3ヶ月前に予測できた人はいただろうか?
 Wikileaks革命と一括されているが、Wikileaksが世界の注目を浴び出した頃、ジャスミン革命が起き、それが瞬く間に近隣諸国に広がるとは想像できなかった。
 予測は「明日も今日と略同じだろう」との前提で作成されるので、この前提が狂うと当たらない。即ち、世界の大変革という肝心な時に外れる。BBCやCNNの流す映像を前に、「不確実性の時代に於ける予測とは一体何なのか」を考えた。
 いっそのこと、予測は的中しないという事実を受入れて、未来を描くべきではないだろうか? そもそも予測は、未来をイメージする道具に過ぎない。中らない予測に頼らずに、未来を描く手法があれば、それに越したことはない。
 そう言えば、ピーター・ドラッカーの手法がそうだ。氏が1946〜1992年に発表した13論文の日本語訳(1994年出版)題名「すでに起こった未来」は「重要なことは、『すでに起こった未来』を確認することである」に由来している。ドラッカーの著書は面白い物語のようだ。それは未来予測ではないが未来物語だから面白い。
 IT革命→情報自由化、ベルリンの壁崩壊、共産主義の終焉、独裁政治体制の終焉。Google、Facebook、Mixi、Wikileaks、等々の発達→人種、国境、宗教、教育、の壁(差別)を越境する。そこには予測不可能な明日が待っている。G.フクシマのいう「歴史の終わり」とは、過去からは未来は見えない、見えるのは「既に起こった未来」だけと言う意味だ。日本にも「未来は過去の延長線上にない」と言う経営者もいるが、同じ意味合いだろう。
 ブラジルや中国の現在は恰も日本の過去のようだ。BRICsの未来の多くは、既に日本で起きている。日本は、これら新興国を羨むべきでなく、ましてや「赤ちゃん帰り」を望むべきではない。自身の直面している新しい問題に取組むべきだ。その為には、自身の周囲で既に起っている未来を注意深く見つめ、そこから幾つかの物語を描き、対処法を用意しなければならないのではなかろうか。
 Wikileaksは世界の透明性を高めた。BBCのドーハー討論会(06/02/2011)では、「Wikileaksは果たして世界をよくするか?」がテーマで、討論の総括は出席者へのアンケートだったが、74%がYesで26%がNoだった。透明度の高い処にはカリスマは生まれない。今や英雄待望論(日本の不幸は指導者不足だの類)はアナクロニズムだ。

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