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イビウナ庵便り=中村勉の時事随筆=11年2月14日=国技という名のスポーツ

ニッケイ新聞 2011年2月17日付け

 大相撲の八百長が問題になっている。「やっぱりあったのか、そうだろうな」というのが大方の見方ではないか、と思う。大相撲は見世物として生まれたので、たかが見世物である以上、そしてKY(空気を読む)文化の根付く所に、「拵(こしらえ)」「人情」「呑込み」勝負があっても不思議ではない。されどプロの勝負である、打合せ済みの土俵を見せられたのでは、たまらない。この「たかが」と「されど」の綱引きが、見世物としての全格闘技の宿命だ。大相撲の場合、そこに、国技の看板を掲げ、公益法人として税金を使っているから、問題を複雑にしている。そこが他の格闘技とは異なる処だ。
 今回ITの進歩(携帯電話)が八百長の動かぬ証拠を提供した。件の綱引きに決着をつける時が突然来てしまい、「されど」派(相撲協会等)は建前上、徹底究明し、八百長を撲滅しない限り、本場所再開は不可能と宣言せざるを得ない嵌めに陥ってしまった。「たかが」派(見る側)の中には、それでは永遠に本場所再開は出来まいと、困惑している向きもあろう。八百長なし(建前)でなければ、出来合い勝負かもしれない見世物に税金を注ぎ込むことの正当性は疑われ、蓮舫さんに仕分けされかねない。観客は激減、公共放送(NHK)で特別放送する訳にもいかない。「相撲協会を組織改革して生き延びよ」という意見もあるが、仮に種々手を尽くし、諸事情を「呑込んで」再開しても、伝統芸の大相撲は復活せず、他の格闘技と同列に扱わざるを得なくなる、と思う。結局は「公共事業の民営化」が行われ、その価値を市場に問うことになる。市場は八百長の有無を呑み込み、価値づけする。そこで成り立たなければ、市場から退場することになる。
 この国技というスポーツに一体どれほどのコストが掛かってきたのだろうか。大相撲に係わる不祥事が起こる度に知りたいと思った。是非「仕分け」して頂いて、費用vs効果を伺いたいものだ。日本固有の文化、国技の価値は計れないという意見もあるだろうが、大相撲の未来を考える為には事業採算(組織維持費、興行収支、広告収入等々)を透明にする必要があろう。文化価値も無限ではない。又、今や大相撲という国技は日本人よりは外国人に依存しているし、今後益々この傾向は強まるように見える。国民的に考える季節が来たのだと思う。国技(公益法人)に天下る面々にも目配りを怠ってはならない。
 世界の傾向は、既得権益者の欺瞞をITが暴く方向にある。携帯電話が日本角界の既得権益者を焙り出しているのかも知れない。Egypt革命(ムバラク独裁政権の終焉)と大相撲八百長騒動を重ね合わせて観ると、世界各地で、事の大小はあっても、ITの進歩が価値観の大転換を促しているように思えてならない。既得権益者に寒い冬の到来、と観た。

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