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東日本大震災支援キャンペーン=がんばろう!〜ニッポン=鎌谷昭

ニッケイ新聞 2011年4月29日付け

 東北大震災のニュースをテレビで観た時は、まるで映画の中に出て来るシーンを観ているかの如く、巨大な波が陸上にある全ての物を押し潰し、薙ぎ倒していくさまが生々しく画面に映し出されていた。自然の猛威とはいえ、余りにも強大な力に人の力は全く無力だ。
 安全、安価だと言われ続けて来た原子力発電も一つ間違うと、とんでもない危険と表裏一体だったことを知らされた。人を傷つける物質が眼に見えないのは厄介だ。どこまで、どう用心したらよいのか見当がつかない。これ程大勢の人が一度に被害に遭ったのだから短期間で元に戻るのは大変なことだ。
 兵庫県があの大きな地震で痛めつけられ、回復するのに、或いは回復した、と声を大きくして言えるまでには十年かかっている。今回の被害は、あの時よりも数倍も大きく、原子力発電所の事故もある。月並みな言葉で頑張れといったところで言葉は空しく人々の頭上を滑り去るだけだろう。
 何かもう少し自分で考えてもらう言葉で頑張れといえないか。
 参考になる事例を出して、それを基にその人なりに頑張ってもらえないか。
 小さな具体的な行動目標があれば、それをなすことが各自の頑張りに繋がらないか。
 これは、伯国へ移住者として来た者が、移住者としての立場から言えるがんばれの言葉と解して聞いて欲しい。
 被害に遭った全ての人達にがんばれというつもりはない。私達があの時—1955年から始まった伯国への移住—当時17歳から25歳の青年が1967年までの比較的短い期間に2500余名、伯国へ渡った。元神戸移住センターの壁に必ず成功すると決意を書き残した豪のものもいたが、当時としては遠い遠い未知の国、ブラジルへ次つぎと移住して行った。住み慣れた故郷を離れたことになる。
 災害に遭った人達の中でこの年齢に当る若いひとたち、これを一つの契機として、何もブラジルまでとはいわないが、日本国内のどこの地域でも、私達がそうであったようにトランク一つで充分だ、移り住む気持ちを今からでも徐々に育み、実行に移してもらえまいか。
 日本国内なら今は何処でも便利な交通機関で繋がっている。日本のお役所仕事は、兵庫県と新潟県の地震被害を基礎に、何処へ行こうが基本的には故郷と貴方とを結びつけ、連絡がとれる制度ができているし、できるはずだ。被害地にずっと何時までも居続ける限り、未来に向かっての復興は遅れるばかりだ。幾らボランティアの人が来、義捐金が集まって来ても、百人、一千人単位の人々が集団で同じ場所に留まっている限り、最初の一歩を自分の足で踏み出すのは難しい。
 コチア青年と名付けられた青年は、言葉も習慣も違った国へ来て、それでもなんとか各自の人生を殆どの人がやり遂げて、静かに少しずつ、ゆっくりとこの国の土へと帰りつつある。この世から消え去るその瞬間「俺の人生は、俺が選んだ」とそれだけは誇りとして確かな手ごたえを感じているはずだ。故郷を離れて新しいスタートを切るのに躊躇はいらない。誰が贈ってくれたのか記憶にないが大事にしている言葉がある。
 「ふるさとは、親しい人の心の中に存在するのだ」と。

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