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ボイスベン号同船者会=船での日々を語り合う

ニッケイ新聞 2011年5月25日付け

 1955年5月10日にサントス港へ着伯した移民船「ボイスベン号」の同船者会が、14日正午から、リベルダーデ区のレストラン「誠」で行われた。
 09年に続き、2回目となる同会には、同船者とその家族7人が参加し旧交を温めた。
 同号はオランダの貨客船で日本移民170人が乗船。横浜を出発し、シンガポール、ベナン、モーリシャスなどに寄港し、60日後にサントスに到着した。100人はサンパウロ州に残り、70人はパラナ州へ移ったという。
 同会発起人の坂和三郎さん(78、東京)は、「健康に感謝しよう。再会と皆の長生きを願ってお茶で乾杯」と挨拶すると、船上での思い出が蘇ってきた。
 「一足のわらじという小説も載せていた。もう一枚も残ってない。出てきても恥ずかしいけどね」と坂和さん。
 子供たちに勉強を教えるかたわら、船内新聞を書いていた。その照れくさそうな姿に、「新聞は楽しみだったよ」と笑顔の榎木原美年夫さん(73、山梨)。
 「他にも赤道祭、ダンスパーティ、喉自慢大会と皆で楽しむ工夫をしていた」と回顧する。
 「やはり食事が一番の楽しみだった」と語る天達市雄さん(75、鹿児島)は「オランダ船なのに船員は中国人ばかり。まがい物の日本料理だったけどね」と懐かしむ。
 寄港したアフリカではアパルトヘイトを目の当たりにした。
 「バスに乗ったら『そこは黒人用の席だ』と。同じ人間なのにね。大いに憤慨したよ」
 戦後の食糧難を耐えた世代にとってブラジルは夢の国—。前田保さん(75、満州生まれ)は、「寄港先でバナナの束を見て坂和さんと一緒に驚いた。ブラジルに期待が膨らんだ」と語り、「移民もブラジル人もいい人ばかり。一年だけのつもりが56年も居付いちゃった」と笑みを浮かべた。
 楽しい時間はすぐに過ぎ、約2時間の同船者会は閉会。「次は忘年会を開こう」「まだ5月じゃないか」と笑顔で掛け合いながら、連絡先を交換していた。

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