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アルゼンチン=日系が誇る2大事業=次は日本病院建設に期待

ニッケイ新聞 2011年8月3日付け

 【亜国=らぷらた報知7月26日付けコラム展望台】「山椒(サンショウ)は小粒でもピリリと辛い」と言う俗諺があるがこの言葉は在亜日系社会に当てはまると言っても誇張ではなかろう。
 世界各国からの移民コレクティビティより成立つコスモポリタンのアルゼンチンの中でも、他国民のそれに較べて移民の歴史も短かく数においても多くない在亜日系社会がアルゼンチンに貢献した業績は決して小さくない。
 展望子は戦後の移住者とあって戦前のことは余り知らないが、戦前の在亜日系移住者は正確な意味で所謂〃移民〃ではなく一般的に見て〃出稼ぎ〃であった。日系移住者が一時滞在者から永住を決意するに至ったのは戦後からである。
 母国日本の敗戦がそうさせたのである。
 その在亜日系社会がアルゼンチン人に対し誇ってもよい、またアルゼンチン人も認めている事業が既に二つある。

国家的行事の花祭り

 一つは国家的名物行事となったエスコバールのフィエスタ・ナショナール・デ・フロールであり、他は連邦首都ブエノス・アイレス市のパレルモ公園である。
 前者は荒れ果てた郊外の一寒村をして一躍〃花の都〃と化せしめた地域開発で、その基礎を築いたのが賀集九平氏を先覚者とする日本人花卉園芸家たちであったことは皆の知るところである。
 領土広大にして人口の少ないアルゼンチンにとって地域開発は政府の一番歓迎する所であり、展望子が来亜当時のエスコバールと現在のエスコバールとは雲泥の差がある。その発展の陰に日本人の努力があったことはエスコバール市民の全部が認めている。

日本庭園

 後者の日本庭園はオンガニア軍事政権時代、現在の天皇が未だ皇太子であった頃、妃殿下を同伴して初めてアルゼンチンを御訪問になったのを記念して、当時の在亜日系社会がパレルモ公園の一隅に小さな日本庭園を築造、ブエノス・アイレス市政府に寄贈したのがその始まりである。
 ところが日本庭園に無知な市政府の放任によって見る影もなく荒れ果てたのを当時、在亜日本人会の会長であった宇野文平氏が復旧したもので、「どうせ改築するならばチャチなものを造るより本格的なものに造り直そう」と、現在見るような最初の庭の6倍も大きい日本庭園に再建したのがそれである。

〃百年祭紛争〃とは

 宇野日会長による雄大な庭園構築構想は〃ドンキホーテ〃的発想として当時の在亜日系社会の一部の反対する所となったが宇野日会長は反対を押し切って強行。その強引な遣り方に当時の大使館も反対に加わって在亜日系社会を二分する所謂〃百年祭紛争〃を惹き起こしたことは今尚、記憶に新たな所である。
 それが原因となって宇野日会長の失脚を招いたが、「いつか、皇太子が天皇となられて御来亜する時、皇太子のために造った庭園がなかったら合わす顔がない」との宇野日会長の先見の明が当り、その後、天皇に即位された皇太子が御来亜された時、その歓迎会を日本庭園で開く事の出来たのは宇野日会長の強い意志と実行力及び頭脳に負うものである。
 宇野日会長の改築した日本庭園は天皇に対する在亜日系社会の面目を立てたのみならず、ブエノス・アイレス市民の〃憩いの場所〃となっているのに加えて日本庭園文化を含めアルゼンチンにおける日本文化紹介普及中心地の役割を果たしているが、そのことを高く評価して中央政府文化庁がパレルモ日本庭園を以って〃国家文化財〃に指定したことも忘れてはならないだろう。
 以上述べた、在亜日系社会がアルゼンチンに誇るべき二つの事業の外にまた一つの新しい貢献が始まろうとしている。

長年の夢日本病院に向け

 去る7月16日、「ニッカイ共済会」(MUTUAL NIKKAI)の名で知られる診療所(DIAGNOSTICO)のイナウグラシオンがそれである。「ニッカイ共済会」がその誕生地である市内インデペンデンシア通り732番の在亜日本人会から新しく購入した市内サンファン通り2496番に診療所を移したのは単なる〃引越し〃祝いではない。在亜日系社会長年の夢である「日本病院」(HOSPITAL JAPONES)実現への第一歩を踏み出す門出となるものであることによる。
 「ニッカイ共済会」創設の構想も宇野日会長の頭から生まれたものである。宇野氏が在亜日会長に就任した当時、中央日会であった在亜日本人会は在亜日系社会の70%を占める沖縄県人連合会を初め近郊地方日会の登場とその発展によって衰微の道を歩んでいた。その日会を復興するには「日会を魅力ある、役に立つ存在としなければならない」と考えたのである。
 南米第一の文化国と言われるアルゼンチンにはドイツ病院、フランス病院、イタリア病院など有名病院の外に大小様々の公私立病院があり医療には事欠かなかったものの、西語に不自由な日系移住者たちは病状が悪化する迄、病院に行かず医者にかかった場合は〃手遅れ〃という例が少なくなかった。
 そこで日本の医大出身である宇野日会長が日本に留学して医学を学び日本語で診断出来る日系子弟の医師で以って共済会を創り日会員は無料としたのである。然し宇野日会長の構想は日会員増加を狙っての西語のできない日系移住者の便宜を計るためだけではなく、その奥底に「日本病院」を建設する構想が潜んでいたのである。
 〃百年祭紛争〃のため宇野日会長時代には実現しなかったが、その夢は宇野日会長の失脚によっても消えることなく前田ドクトルや小池ドクトル、その他の日系医師たちに承け継がれ「ニッカイ共済会」を存続させ、遂に今回のイナウグラシオンとなったのである。現在はPLANTA  BAJAの診療所だけだが9階の本格的病院建設に向って進むことになっている。その実現には何年掛るか知れない。
 が、その基礎は築かれたのだ。この上に立って日本病院建設の夢は後に続く日系子弟たちによって承け継がれて行くだろう。〃日会叩き〃を乗り越え、幾多の困難に耐えて茲迄持って来た「ニッカイ共済会」のメンバーに対し心から祝意を表すものである。
 最後に〃日本庭園の父〃であり、将来、日亜医学交流の拠点となる「日本病院の父」となる宇野文平氏に対しても尊敬と感謝の意を表して、お祝いの言葉としたい。おめでとう!(高)

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