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水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第1回=知られざる家族の逸話=息子「悪人だと思っていた」

ニッケイ新聞 2011年8月10日付け

 「移民事業は失敗だったと落胆したまま親父は死んだんです。百周年でブラジル社会、日本社会からあのような賞賛が寄せられたことを、まず母親に伝えたかった」。〃ブラジル移民の祖〃水野龍(1859—1951年、高知)の息子、龍三郎(80、二世)の語る父親像は衝撃的な内容だった。笠戸丸移民からお金を借りて返さなかった人物としての悪評が一人歩きしたあまり、ブラジルへの移民事業を創始した大功労者でありながら、今までその実像に焦点が当てられず、正当な評価がされないまま歴史の闇に葬り去られようとしていた。いったいどんな人物で、なぜブラジル移民を始めたのか? その妻・万亀(まき)の知られざる貢献とは。そして明治維新のどんな部分からブラジル移民という流れは生れたのか。60回目の命日となる14日を機に、〃偉人〃というにはあまりに過激な水野龍の生涯に改めて迫ってみた。(深沢正雪記者)

 「水野龍の息子が生きている」と最初に聞いた時、耳を疑った。水野龍は1951年に92歳で亡くなった。父親と30歳違いの息子だとしてもその当時すでに60歳だったはずであり、それから60年たった現在なら120歳だ。「息子が生きているのはありえない」と自問した。
 先輩記者に尋ねても水野龍の息子が生きているとか、取材したという話は聞かなかった。水野が死んだ51年は国交が回復しておらず、戦後移民すら入っていない時期だ。
 しかし、7月13日晩、パラナ州クリチーバ市の自宅を訪れると、笠戸丸を運行させた男の息子は、驚くほど元気な姿をみせ、「80歳」だといった。移民最盛期の1930年代前半に子供移民として来た年代と変らない歳だ。頭の中で計算し、「水野龍が72歳の時の子供だ!」と内心驚いた。
 「周りの大人がみんな水野龍のことを悪く言うから、僕は大人になるまで父は悪人だと思っていました」。龍三郎は忸怩たる思いを込めて、そう少年時代をふり返る。ブラジル移民を始めたという類稀な業績を持った父を、息子は当時理解できなかった。
 「だって僕がもの心ついた頃、父は日本でした。回りにいた日本人はみな『俺達は水野にダマされてブラジルまで連れてこられたんだ。俺達の世話をするのは当然だ』と母に脅すようなことを言って食べ物やお金をもっていくんですから」。この頃いったい水野家には何があったのか。
 1931年2月生まれの龍三郎がもの心つく頃といえば、太平洋戦争の開始前後だ。水野龍はパラナ州ポンタ・グロッサに理想郷たる土佐村(曙植民地=コロニア・アルボラーダ)の建設を開始したのが1936年、途中で資金が足りなくなって訪日したのが41年6月。資金のめどが付いて戻る直前に真珠湾攻撃が起き、以来10年間も「日本篭城」となった。その間の出来事だ。
 「そんな日本人たちに母は一言も言い返しませんでした。ただ『ゴメンナサイ』と繰り返し、『今はこれだけしかありません』とあるものを全て渡していた。あの頃の母の苦労は並大抵のものではありませんでした。そんな後姿ばかりみて育ちました」と振り返る。
 そんな状況に母万亀を置き去りにしていった父は、息子にとって偉人ではなかった。母の震える小さな背中を見ながら、「なぜ言い返さないのか」と歯がゆい思いを噛み締めていたという。
 〃ブラジル移民の祖〃の家族の打ち明け話は想像もしていないものだった。知られざる移民史の秘話が語られ始めた。(つづく、敬称略)

写真=龍の息子、龍三郎(上)/洋装をした〃移民の祖〃水野龍


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