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懐かしのGV州立職業学校=(下)=奥地から日系子弟が出聖=帰郷の交通費も支給

ニッケイ新聞 2011年9月30日付け

 同窓会を取り仕切る委員会代表で、4代目校長のマリオ・イアネッタ氏の挨拶後、65年卒業のアウド・デマルキサンパウロ州議はステージで、「今日は歴史的な日」と感無量の面持ちで挨拶した。
 委員会メンバーで、54年に卒業したアントニオ・ペレット氏(79、イタリア系三世)は同校について、「欧州の教育に基づく学校として設立された」と説明。専門技術を学ぶ実技のほか、歌や体育の授業もあったという。
 「授業は厳しかった。複数の学校に行ったが、最も多くを学んだのはGV。卒業生の多くは成功しているし、みんな学校のことを今でも覚えている」と誇らしげに語る。
 62年に機械科を卒業し、現在はサンベルナルド・ド・カンポ市在住の大名マリオ昇一さん(66、二世)は、サンパウロ市から約300キロのサンタクルス・デ・リオパルド市から5歳で出聖した。
 当時GVに入学するのは難しく、競争率は100分の1だったという。試験科目は数学、自然科学、ポ語などがあった。
 卒業後は大学で生産技術を学んだ大名さんは、「あの頃、日本人の子供は皆GVを目指していた。それだけ、いい学校だと評判が良かったんです」と話す。
 59年に機械・モーター建設科を卒業した久保田隆平さん(73、二世)はこの日、ウバツーバから訪れた。高等部のみ3年間通い、卒業後はUSPで機械工学を学んだ後、SABESP(サンパウロ州水道局)、エスピリトサント州ビトーリア市の製鉄会社に勤めた。
 サンパウロ州北部のリンス市に生まれ、56年にGVに入学。同校の寄宿舎に入った久保田さんは、「食堂があり、昼食や軽食が無料で支給された。地方出身者には帰郷するさいの往復交通費も支給された」と振り返る。
 「GVには大学でも教えていた良い先生が揃っていた。実際とても良い学校でしたよ」
 久保田さんの父は海軍出身で、8歳まで日本語で育てられたという。「45〜50年代は、日本語の名前を付けてはいけないとか、日本語を話してはいけないなどと言われて、学校でもいじめがありました。特に田舎の人は苦労しました」
 大名さんも8歳までは日本語で育ち、ブラジルの学校に入ったものの、12歳まで日本語学校でも勉強したという。
 「今日は同志に会えると楽しみに来ました。日本人は年をとっても若い頃の面影があるが、ブラジル人はわかりませんね」と笑っていた。
 48年に電気科を卒業した久保田義藏さん(84、福島)は、38年5月に11歳で来伯。ソロカバナ線パラグアスー・パウリスタ文化植民地に入った。
 入植当時は日本語の学校がなかったため、「自分で日本語を勉強した」という久保田さん。42年にGV入学後はピニェイロスに下宿し、電車でブラス区まで通った。
 久保田さんによると当時、大学に入学しても外国人は卒業証書がもらえないという噂があったという。しかし、「手に職を持つことが必須になり、親に学校にやらされました」。
 41年12月、GVに入学するため来聖した。「日本人は皆、子供には教育を、とそればかり言っていたんです。あの時代で、ブラジルに来て3年後にサンパウロに出してくれた親に感謝ですね」と笑みを浮かべた。
(おわり、田中詩穂記者)

写真=「48年卒業組」の皆さん(右から久保田義藏さん、酒井清一元援協会長、ジョアン・メイヤーさん)(上)/同窓会に出席した皆さん(左からペレット氏、久保田隆平さん、右はサイトウ氏)


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