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蘇える〝消えた村〟の思い出=ジャクチンガ出身者の集い=50年ぶり「変ってないね」

ニッケイ新聞 2011年11月9日付け

 サンパウロ州ポンペイア市近郊のジャクチンガ植民地出身者の集いが10月12日、山形県人会で催された。15回目を迎えた今年は、同地で生まれた二世が子弟や孫を連れ、遠くは南麻州や南大河州から76人が参加した。36年に入植が始まった同地はバタタなどの栽培で潤い、戦前の最盛期には百家族以上を数えた。今は牧場となり、日系人居住者はおらず〃消えた植民地〃となったが、年に一度開かれるこの集いでは往時を懐かしむ懐旧談で来場者は満喫した。

 会場では、顔を合わせるなり「変わってないね」と抱き合う姿があちこちに見られた。参加者が揃うと、先亡者に一分間の黙祷を捧げた後、世話人を代表して国井靖さん(75)が、「ジャクチンガを愛する人達のおかげで開催できます。特別なことはないが、楽しい一時を送ってほしい」と挨拶。昼食を囲んで昔話に花を咲かせた。
 同地生まれの新浜敏之さん(74、二世)は、「親はいつも『早く皆で日本に帰ろうな』と言い、土日なく働いていた」と家族を挙げて錦衣帰国を目指していた当時を振返った。
 「一緒にままごとで遊んだよね」と話す南広子さん(69、二世)は、南麻州から訪れた白石英吉さん(73、二世)との半世紀ぶりの再会を喜んだ。「白石さんとは家が隣でね。戦前は玩具もなく、とうもろこしのひげで人形を作ったり、みかんをまり代わりに蹴って遊びました」。
 毎年の演芸会、隔年の運動会が娯楽の少ない同地を癒した。天長節には仕事や学校を休んで学校に集まり、君が代を歌った。鈴木美和子さん(71、二世)は、「必ず教育勅語を読み上げた。今では見られない光景ですね」と振り返る。
 太平洋戦争は同植民地にも暗い影を落とした。日語学校は閉鎖され、隠れて日語を教えていたために逮捕、収監された青年もいた。「日語は夜に石油ランプをつけて倉庫で勉強した。警察が来るとフッと消して隠れた」と世話人の山矢三郎さん(74、二世)。「親が持ってきた日語の本は畑に埋めました」。
 終戦後、耕してきた土地が古くなると、農地を売りこぞってサンパウロ市を目指した。60年頃には植民地には20軒ばかりとなり、逆にサンパウロ市では65年に南伯産業組合会館を借り初の集いが行われた。
 農家だった猪苗代さんも土地を売り、50年に出聖して溶接業を始めた。「皆『サンパウロ、サンパウロ』と躍起になっていて。誰も止める人はいませんでした」。
 国井さんは「植民地はもうないが、人が集まれば昔なじみと話ができる。世話人は60代で、ありがたいことに出身者の子や孫が手伝いに来てくれる。あと20年は安泰ですね」と穏やかな表情で語った。
 会はビンゴで盛り上った後、最高齢参加者の根元文枝さん(87、茨城)ら80歳以上の高齢者に記念品が配られた。記念写真を撮り終えると三々五々帰途に就いた。

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