第17回 =挙県体制とメディア連携=大会誕生の経緯を探る

ニッケイ新聞 2011年12月20日付け

 大会誕生の内幕には諸説あるが、84年から琉球新報が世界のウチナーンチュを紹介する500回もの長大な連載をしたのが契機だったようだ。
 さらに沖縄テレビでは前原信一(まえはら・しんいち)さんがディレクターを務めて「沖縄発われら地球人」「世界ウチナーンチュ紀行」など210本にわたるシリーズを放送してさらに気運を盛り上げた。一般的には、その流れの中で故西銘順治知事(在任期間78—90年)が「世界のウチナーンチュ大会」を発想し、任期最終年の90年からこの大会が始まったといわれる。
 実はブラジル県人会の与那嶺会長も大会原案に一枚噛んでいるという。86年に西銘知事一家が来伯した際、田場ジョルジ聖市議(当時)と与那嶺さんは聖市のテラッソ・イタリア最上階の高級レストランで接待した。
 与那嶺さんは思い出す。「いい機会だからと思って『二世として折り入ってお願いがある』と知事に言ったんです。自分達は親を日本に行かせようと頑張ってきた。でも自分では沖縄には行かない。アルゼンチンでは二世が十数人も軍事政権に殺された。ブラジルでも具志堅ルイス(のちの大統領府広報長官)、荻堂オメロ(連邦下議)とか偉い県系二世が出ている。彼等を沖縄に呼んで、その国の言葉で挨拶させたい。言葉は違ってもウチナーの魂を持っていることを、沖縄の人々に理解してもらうだけでいいじゃないかと提案したんです」。
 88年に与那嶺さんが那覇に知事を訪ねた時、基地反対運動が盛り上がっていた折で、知事室のすぐ外まで反対派の人たちが来て凄い騒ぎになっていた。そんな緊迫した情勢の中で知事は、こっそりと「あと二年したらあの大会ができるよ」と耳打ちした。そして与那嶺さんと田場さんが第1回大会のウチナー民間大使に指名された。
 与那嶺さんは「大会実現の原動力になったのは、知事の報恩の気持ちだ」という。「西銘知事は戦後の苦しいときに海外からの支援物資を送ってもらったことを感謝していた。だからブラジル各地に会館を作るときにも手を貸してくれ、大会実現にも力を注いでくれた」と感謝した。
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 大会前から地元紙では関係記事が連日、1面トップを飾る。大会の経緯を振返る沖縄タイムス10月7日付け記事によれば、西銘知事は幼少時に南洋パラオで育った。85年に基地縮小の対米交渉を目的に訪米し、アトランタで県人から大歓迎を受け、皆とカチャーシーを踊って感激し、在外県人の存在を強く印象付けられた。沖縄県系人が母県の来賓と共にカチャーシーを踊る姿は今でも欠かせないものだが、そこから全てが始まった。
 その後、87年の海邦国体開催時に世界7カ国から515人の代表を集めてワールドウチナーンチュフェスティバルを開催して好評を得て、89年に大会事務局を立ち上げたと同記事にはある。
 また、閉会式を報じた琉球新報は通常ならスポーツ新聞でもありえない紙面レイアウトで盛り上がりを報じた。一面と最終面の見開きを一枚の巨大なカラー写真で埋めたのだ。繊毛のようにびっしりと天に向かって伸びる手が写しこまれており、観客の興奮をはっきりと伝えるド迫力の写真だ。力の入った紙面構成であり、大会の盛り上がりは、このような地元メディアの力の入れ方を抜きにして考えられない。
 大会の始まりから地元メディアは深く関わり、盛り上げ続けてきた。知事自らがアイデアを出し、分け隔てなく海外子孫の意見に耳を傾けて具体案を練り上げ、さらに大学の研究者、県庁職員、中学高校、海外子孫などが一体になって全ウチナーで盛り上げてきた。つまり、大会自体がすでに世界のウチナーンチュが作り出した「作品」といえる。(深沢正雪記者、つづく)

写真=琉球新報による迫力の記事

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