第7回=120年経て覚醒する子孫意識=初訪沖のNカレドニア勢

ニッケイ新聞 2011年12月6日付け

 世界のウチナーンチュ大会の開会式会場には不思議な集団が座っていた。沖縄県系人というよりは、普通の白人の一群だ。
 「誰だろう」と疑問を感じて声をかけると、初参加のニューカレドニア(以下NC)沖縄日系人会の一団45人だった。オーストラリア大陸の北東部からさらに1200キロほど東の太平洋に浮かぶ島だ。
 仏ル・ニッケル社からの労働者を求める要請を受けた外務大臣・榎本武揚が、1892年にニッケル採掘の露天掘り鉱夫を送り込んだことからNC日本移民は始まった。沖縄からは900人弱が渡った。もちろん永住ではなく、5年契約のデカセギだった。日本人全体では1892年から1919年までに6880人が渡り、ほとんどが男性であった。
 しかし契約終了後もそのまま島に居残り、現地人女性と所帯を持って子供を作る人が多くいた。「移住」は常に気まぐれな一時滞在から始まり、気がついたら永住に切り替わっている。
 「沖縄移民の100年」サイト(rca.open.ed.jp)にある石川友紀琉球大学教授の総論「沖縄の移民」によれば、大戦前には南北米の大陸ほかに、東南アジアのフィリピンに2万人、シンガポールに3千人、南洋群島に5万人、台湾に2万人、満州に3千人が在留していた。この南洋群島への移民というのも沖縄県系の特徴だ。
 NC移民は送り出し側の人脈的にはブラジル移民とつながりがある。田崎慎治(長崎県出身)が関係していたからだ。
 田崎は、長崎商業在学中からフランス政府のNCニッケル鉱採取夫送り出し事務所に勤務し、海外移住に強い関心を持っていた。その後、上京して東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、英国留学を経て、1908年4月、水野龍が切歯扼腕して実現した笠戸丸の神戸出港を目にして南米移民に強く心を奪われたという人物だ。
 その後、神戸高等商業学校(現神戸大学)の教授となり、その教え子からはのちにアマゾン移民導入の立役者で高拓生送り出しを実現した上塚司、辻小太郎、南米銀行創立に関わる宮坂国人、その他、粟津金六、九十九利雄らがいた。その田崎が送り出したNC移民の末裔がここにいる。
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 子孫らと同席していた移民史研究家の津田睦美さん(49、奈良)に話を聞くと、「長かった空白をようやく埋めているところ。感動のルーツとの再会ですよ」と解説してくれた。
 敗戦により、1946年に日本人は全て島から強制送還された。しかし、現地人である母親と混血児は資産没収の上で残され、差別を受けて大変な苦労の中で生活し、日系人としての意識を完全に失っていた。同地の日系人総数は約8千人といわれる。
 一方、日本移民である父と共に日本に強制送還された子供たちは「タツラキッズ」と呼ばれた。
 津田は同県人会の誕生を記述する一文の中で「タツラキッズ」をこう説明する。「敗戦直後の日本に初めてやってきた彼らは、外国語なまりの日本語を話し、敵国にいたことなどを理由に学校でいじめられ」るという悲しい子供時代を〃祖国〃で過ごした。
 混血の二世、三世、四世ら世代が、ようやく正面から自分のルーツと対面し、子供時代の記憶を封じ込めていた呪縛から解き放たれたのが、この大会参加という瞬間であったと津田さんは強調する。
 07年にようやく沖縄県人会を結成し、母県側に受け入れ団体「沖縄ニューカレドニア友好協会」も組織され、今大会が初参加になった。いわば約120年ぶりの〃祖国〃訪問だ。(深沢正雪記者、つづく)

写真=ニューカレドニア子孫の到着を報じる沖縄タイムス10月8日付け

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