第12回=明治の精神を持つ県系人=ルーツ意識深める二世ら

ニッケイ新聞 2011年12月13日付け

 「ここはお国を何万里、はなれて遠きブラジルの、赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」。そんな「戦友」の替え歌が戦前移民の間ではよく歌われていた。夢に見る故郷は、いつも自分が離れた時そのままであった。
 全日本移民25万人の過半数である13万人を占めた「団塊世代」(1926年から35年までの10年間に大量移住した世代)の家長は、明治後期から大正期に人格形成した。その気質が家庭を通して子孫に伝えられ、後に大きな影響を与えた。
 日本では終戦という大鉈によって〃明治の精神〃の感性は分断された。だが、当地子孫の一部には家庭を通して純粋培養して伝えられた。
 日本移民全般でみると、戦前の大型団塊世代と、戦後の小型団塊世代(1956年〜1961年の6年間に約3万5千人)と2回形成している。
 ところが沖縄県系人にはもう1回ある。保久原淳次さんの父正輝さんは1918(大正7)年に叔父の保久原牛(うし)夫妻に連れられて13歳で渡伯した。家長の牛は明治に生れ育っており、沖縄版団塊世代第1弾だ。
 1917年(全渡伯者の55%)と18年(同37%)の2年間に渡航した沖縄県人は合計4342人もおり、18年現在の全日本移民の17%を占めた。当時6人に1人は沖縄県人だった。
 これは、日本国外務省による最初の沖縄県人渡伯禁止令を解除した直後だ。その間に溜まっていた希望者がドッと押し寄せたので、一般の日本移民よりも早い段階で独自の団塊世代を作った。
 『曠野の星』(56年8月号、8頁)によれば、沖縄系集団地の南麻州カンポ・グランデ市日語学校の山城興長(こうちょう)校長は「家庭内では親と子の会話の80%はブラジル語で、20%が沖縄語とポ語を混ぜている。日本語を不自由なく話すには3年かかる。敗戦によって自信を失った為、日語の熱意を失った」と分析している。この世代と日本語は遠い。
 沖縄方言で育った淳次さんの世代は人格形成期に、父を通して牛が持つてきた〃明治の沖縄〃の薫陶を受けたのだろう。
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 普通はどこの県人会も若者を巻き込むことに苦心している。では二世、三世への県系意識継承のためにこの大会はどんな効果があるのか。
 大田正高さん(まさたか、55、豊見城市)=サンパウロ市在住=は、2歳で親に連れられて渡伯した。「開会式で世界中の旗が立ち並んだ光景を見て、世界中にウチナーがいるんだと実感した。それが今ここに集まっているという団結感に感動した」と興奮冷めやらぬ様子だ。那覇生まれだが、すでに日本語を忘れた世代がそんな感想を持ったという。
 サンパウロ市ジャルジン・ダ・サウーデ区在住の比嘉セルジオさん(68、二世)は、「初めての沖縄、初めての大会だがとても感動した。ここが自分のルーツだと実感する。叔父や叔母に会い、本家の仏壇に線香を挙げたら何か心が洗われるような気がした。またきっと沖縄に戻ってくる」と祖父の地に初めて足を踏み下ろした感動を語った。
 呉屋春美さん(57、やえせ町)=サンパウロ市=は「3回連続参加だ。従兄弟や親戚から『お帰りなさい』と熱烈歓迎されるのを一度体験したら来ないではいられない。県人の絆の深さに心から感動する」と顔を紅潮させる。5歳で移住したが「故郷をはっきりと覚えている」と強調した。
 県人会の与那嶺真次会長(二世)は、「ある旅行社では大会ツアー参加者のうち80%は日本語が分からない世代だった。今回沖縄を訪れた二世のほとんどは祖父の地を訪れ墓参りをし、本家にいって位牌に手を合わせてきた。祖父はここで生まれ、自分の根っこはこの村にある、自分の家族はここから始まった、そんな思いを深めたはず」と見ている。
 保久原さん同様、自分の中に親から埋め込まれてきた沖縄性を再認識することで、すごい規模でルーツ意識の覚醒が起きている。(深沢正雪記者、つづく)

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