ホーム | 特集 | 新年特集号 | 2012年新年号 | 信念と信仰に生きた中島邦=「移住地に降りたった白鳥」=姉の遺志継ぐ笹川春艸=思想統制で特高に収監

信念と信仰に生きた中島邦=「移住地に降りたった白鳥」=姉の遺志継ぐ笹川春艸=思想統制で特高に収監

新年特集号

ニッケイ新聞 2012年1月1日付け

 「滅多にない大風が吹いた時『姉がここにいる』、そう思いました」—新潟県出身の水墨画家・笹川春艸(本名=芳)は、少し遠くを見るような目をし、感慨深そうな表情をしながら語った。新潟県人会創立55周年の記念事業として、昨年10月に文協で開かれた個展にあわせて来伯した芳の旅には、もう一つの目的地があった。今年7月に入植50周年を迎えるグァタパラ移住地、彼女の姉・中島邦(1920—1995)が骨を埋めた場所だ。新潟の寒村に生まれたカテキスタ(教理を説く人)「邦」、その受難の人生を辿ってみた。

 邦は1920(大正9)年、上越市頸城区榎井に9人兄弟姉妹の第三子として生まれた。幼少時代には男の子に交じって戦争ごっこをするおてんばな少女だった。
 1940年に卒業を控え、教師を志した邦はその規範をカトリックの教えに置こうと決め、専門学校3年の時、カトリック高田教会の神父から洗礼を受けた。
 世界大戦突入の前夜、国家による思想統制は厳しかった。神父の下で開かれていた聖書研究会は警察当局に睨まれることになった。
 44年、カトリック高田教会のドイツ人神父と、邦を含めた7人の信徒は連行された。「信仰告白とその主張が当時の国民感情に逆らう危険思想と判断した」との容疑だった。米国人と付き合いがあった神父はスパイ容疑がかけられていた。
 尋問に答えればねじ曲げられて調書に記され、劣悪な拘留所内には差し入れの食糧も届かない。直江津・長岡・新潟の刑務所を転々とした。
 『カトリック高田教会 創立100周年記念誌「福音と歴史を基盤に」』(カトリック高田教会刊、91年)によれば、「コンクリートの床に布団はあったがシラミに泣かされた」という生活だった。「信仰を棄てない限りこの世で生きられないのだ」と記している。20歳を過ぎたばかりの多感な女性が1年以上を獄中で過ごした。
 芳は「台所では母が声も立てずに泣いていました。小学校一年生だった私は、家族に何が起こっているのか分かりませんでした」と思い出す。終戦と同時に1年4カ月の拘留生活を強いられていた姉が帰ってきた。終戦まで抑留されたのは神父と邦二人だけだった。
 父を早くに亡くし母子家庭だった中島家は近隣で「スパイだ」との風評にさらされた。獄中生活で心身ともに衰弱した姉は、肺病を患っており入退院を繰り返した。
 しかし、教職を目指すという初志を貫き、新潟県、秋田県、愛知県で教鞭をとった。その赴任地の一つがカトリック系の南山高校だった。体が弱く修道女にはなれない…そこで、日常生活をしながらカトリックの要理を深めようと聖母カテキスタ会に入った。

 伯父が戦前の在聖総領事=「移民の心を癒したい」

 実は中島家とブラジルとの縁は戦前にさかのぼる。邦の伯父にあたる中島清太郎は、現在の一橋大学にあたる東京高等商業学校を卒業後、昭和38(1905)年に三井物産に入社、インドでカルカッタ支店長を務めるなどの活躍が評価され、1922(大正11)年に外務省へ入省。シンガポールを経て、1927(昭和2)年から在サンパウロ総領事を4年間務めた。
 1932(昭和7)年に退任後、故郷新潟へ帰った折に、邦と芳はこんな話を直接に聞いたという。
 「幼すぎて、当時の私にはよく分からなかったけれど、『雨期には胸まで浸かる沼地で米作りをした人もいる。鰐、ひょうと闘いながら密林を開拓しなければならなかった』と言っていたことを覚えています」
 戦後、叔父から聞いたブラジル日本移民の話を思い出し、日本文化で移民の心を癒したいとの思いが邦の中で頭をもたげてきた。

 73年にグァタパラへ=決めたら曲げない性分

 一方、1962年に創立されたグァタパラ移住地には、日本から多数入植したが、当初はカトリック信者が居なかった。62年にリベイロン・プレットからモリッツ神父が赴任したことで信者は増えはじめた。
 しかし、モリッツ神父は感情の起伏が激しい人で他宗教との対立があり、長くはとどまらず、67年には伝道婦とともに移住地を去った。
 残された信徒は信仰のより所を失ってしまった。その後、リベイロン・プレットから神父の往来はあったものの、自前の教会もなく心細い状態が続いていた。
 信徒会の当時の会長・高木治三郎は、地区を統括する日伯司牧協会に掛けあい、日本語が話せる神父の常駐を望んだという。カテキスタである邦との文通が一年もの間続けられた。
 邦が53歳の時、1973年に請われるかたちでグァタパラへ移住した。直前まで家族には告げておらず、もちろん家族は邦の健康を心配して反対した。
 「姉が言い出したらきかないことは家族も知っていました。50歳を過ぎ、人生の後半の過ごし方を考えていたようです」と芳は回顧する。
 白いワンピースに広いつばの帽子は邦に良く似合い、赤土が続く道によく映えた。「掃き溜めに白鳥、さながらそんなところでした」とグァタパラ文化体育農事協会の川上淳会長はその印象を思い出す。
 「初めての仕事は、私の夫の葬式でした。その時きれいな声で歌われた聖歌に聞きほれてしまいました」と話すのはグァタパラに暮らす高木みよ子(63、二世)だ。
 「73年の2月、大黒柱を失った私は、2歳と8カ月の子供2人とともに明日からどうしようと途方に暮れていました。邦さんは葬式のあとも気にかけて、いつも家に来てくれました。『教会にきたら』と言われ、生活が変わっていきました」
 家庭訪問はキリスト教入信の目的もあったが、移住地を颯爽と歩く姿は多くの移住者の目に焼き付いている。

 日曜学校で日語教える=伯人校でドラム缶風呂

 教師免状を持った邦は、来伯から1カ月もしない73年2月から待望の日曜学校を始めた。小学1年生から4年生までの子供達に日本語の読み書きを教えた。
 教科書は聖母カテキスタ教会から送られたものを使用。毎週土曜が授業日となったが、一人では手がまわらなくなり、移住者らに手伝いを頼んだ。生徒数は100人以上に達した。
 住居はブラジル学校の一室を借りて生活。山羊を飼っており、ドラム缶の風呂に入った。
 教会や日曜学校で日本の礼儀を教えたほか、華道、茶道、陶芸の教室を開いた。しかし、邦も万能ではない。「周りの人をその気にさせて、巻き込むのが上手だった」とサンパウロに住む陶芸家の高井ジャシー(78、二世)は思い出す。「『グァタパラで教えてほしい』と言われて」。
 言葉は少なかったが、子供にも大人にも厳しかった。言い出したら曲げない姿勢は筋金入りの〃獄中仕込み〃だ。
 信徒会の念願だった教会建設にも邦は多大な貢献をした。
 グァタパラ移住地へ教会を置く必要性をローマ教皇にまで直接伝えにいこうと決意した。「何も持たずに行くことはできないと日本舞踊を猛練習していました」と田中美喜(59、山形)はエピソードを語った。
 結局、ドイツの教会と実業家の兄が資金を工面した。79年、移住地の皆でレンガを積んで作った教会は「聖家族」(サグラダ・ファミリア)と名付けられた。83年には隣接する形で宿舎「マリア館」が建てられ、邦はそこに移り住んだ。

 「姉の気持ち分かった」=移住地挙げて大歓迎され

 故郷とは全く異なる気候に邦の体は確実に蝕まれていた。邦がリベイロン・プレットの病院で亡くなる2年前のこと、妹の芳にブラジルへ遊びに来るよう誘いがあった。イグアスの滝、リオなどの観光地が続いた旅程の最後に、見慣れない「グァタパラ」の文字があった。
 「末っ子の私は離れていて他の兄弟からは相手にもされなかった。姉の邦とも18歳離れていました」。それゆえに、体力があり、兄弟姉妹を代表してブラジルを体験しにやってこれた。
 村を上げて歓迎会を開いてくれた。「移住地の皆さんに会って、姉が私にブラジルへ来させた理由が分かりました」。
 「皆さんとても温かい人で『(身体がもし悪くなって)車椅子になってもいいから帰ってきてほしい』と言われました。姉が『ブラジルの土になりたい』と言っていた気持ちが分かりました。日本に帰ってから、今度は私が兄弟にブラジルの良さを説得しました。姉に似て、私も決めたら曲げない性格ですから」と思い出す。

 因縁の地を詣でる妹に=不思議な大風が迎える

 グァタパラ文化体育農事協会の会議室の壁には姉妹の故郷である新潟の寒村を描いた額がかけられている。「頸城野早春」と書かれた100号の大作で、今回の来伯で寄贈された。
 移住者の一人は言う。「春の訪れを待つように伸びる『はさぎ』。無骨で荒々しい節くれをもつこの木は、移住地の農業が芽吹くのを待っていた戦後入植者の生き方に重なって見えるんです」。
 新潟県人会式典に出席した後、芳はグァタパラ移住地に寄り、5日間に渡りワークショップを開催し、リベイロン・プレットからも参加者が訪れた。日語学校の生徒は和紙に墨を滲ませ、幽玄をイメージして遊んだ。
 以前来た時には個展を開いたが、次は教える約束をしていた。「筆、すずり、全て移住地に置いてきました」。邦が晩年を過ごした宿舎「憩いの家」にある茶室の掛け軸にも墨絵が飾られている。「姉の遺志をついで頑張りたい。できるだけ日本の心を置いてこなくちゃ」と気を張る。
 「実は姉と同じで私も教師だったんです。奇しくも、姉が渡伯した年齢の53歳を迎えた時、墨画指導者認定書を頂き、墨絵の道に進むこと決意しました。人生の後半をどう過ごすかが、そこで決まったんです」。
 10月19日、移住地の教会で行われた記念ミサで、不思議なことが起こった。冒頭のように突然、滅多にない大風が吹いてきたのだ。まるで誰かが風に乗って現れたかのようだったという。
 「なぜか私が来る度にこうなんです。グァタパラの人達は『中島先生が怒ってる!』『帰ってきたんだ』と笑顔を浮かべてね。蝋燭の明かりだけの夕食会はとても神秘的で、すごく印象深かった」と嬉しそうに目を細めた。(敬称略)

image_print

こちらの記事もどうぞ