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特別寄稿=望郷阿呆列車=ニッケイ新聞OB会員 吉田尚則=(5)=乗継ぎ続け南下

ニッケイ新聞 2012年1月21日付け

 午前9時10分、ガタンとひと揺れし、新潟駅行き特急いなほ8号が秋田駅を発車した。羽越本線をたどるこの列車も半室グリーンで、客はわたしとドイツ人らしき初老の夫婦1組だけ。夫がなにごとか言い、妻のほうはヤーヤーと頷いている。
 ほどなくして妻が立ち上がり、グリーン車後部に歩き去った。わたしはすぐさま、乗車間もなく利用したこの列車のトイレに思いが走った。男女共用でしかも和式なのだ。婦人は何気ない表情で戻ってきたが、用は足せたのだろうか。わたしはなぜか日本人を代表した気分で同情し、いっぽうでJRの無配慮に腹が立った。 
 日本には温水洗浄便座付き便器というスグレモノがある。快適この上ない使用感で、わたしの田舎町にまで浸透している利器なのだが、昨今では外国人客も多い特急電車がなぜトイレを改善しないのだろう。事あるごとに国際化を唱えていながら、このへんを置き去りにしたままなのはいただけない。
 やがて窓外に奇観とでもいえそうな景色が展開されてきた。平地のあちこちが小高く盛り上がり、松なども生えている。「田畑の中に点在している古墳状の丘は、島だったにちがいない」と、わが司馬遼太郎氏が『街道をゆく—秋田県散歩』(朝日新聞社刊)で語るように、象潟のこの一帯は江戸時代、地震で海底が隆起し陸地と化したのだそうだ。
 俳聖芭蕉が訪ねた当時、象潟はまだ海面のそこかしこに小島の浮かぶ水景をみせていた。
 「松島は笑うふが如く、象潟はうらむがごとし」と、芭蕉は辿ってきた松島と対比させながら象潟の印象を紀行文『おくの細道』(新潮社刊)で述べている。象潟の美しさには、泰山の名画的松島と比べどこか陰影があったのだろう。
 その芭蕉だが、おくの細道行を前に「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。(中略)古人も多く旅に死せるあり。予もいずれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず」(新潮日本古典集成『芭蕉全集—おくの細道序章』)と、心境を吐露している。
 わたしも片雲の風に誘われて漂白するがごとく、一路南下をたどる特急列車に身を任せているのである。決して体調万全とはいえず、わが年齢を考え軽薄にも悲壮感がわいたりした。
 午後0時58分、新潟駅に定刻着。ここで信越本線、北陸本線経由の金沢駅行き特急北越6号への乗り換え時間は、わずか4分しかない。
 しかも到着の7番線から3番線まで3ホームをまたいで階段を昇り降りしなければならず、JRの拙劣なダイヤ編成に再び腹が立ってきた。老人は若者の10倍もキレやすいと聞いたが、ホントかななどと思いながらわたしは小走りに歩いた。
 どうして日本海側の列車は、悪名高い山陰本線を筆頭にこうも不便なのか。いや列車に限らず、太平洋側の先進ぶりに比べ、こちらはよろず置き去りにされた感が否めない。かつては「裏日本」と多少の蔑称感を含ませて呼ばれた日本海側が、明らかに「表日本」の時代もあったのだ。
 江戸期、蝦夷地などと交易する北前船は、運航条件の悪い太平洋側は避けてもっぱら日本海側を主要ルートとし、湊伝いに千石船で各地の特産品を運んだものだ。秋田藩土崎湊などは、多い年で900艘もが出入りして殷賑を極めたと書物にある。佐渡では、村ごとに能舞台がみられるほど文化が栄えた。  
 思えば、古代から日本海側は表舞台だった。中国大陸、朝鮮半島とは、周知のごとく人物交流に伴う文化の導入が日本海を往来路としつつ盛んに行われていた。昨今でこそ裏側の悲哀をかこっているが、再び脚光を浴びる時代へ、歴史は繰り返すというぞ。



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