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「娘は日本が大好きだった」=西村夫妻が思い出語る=静岡にローンで自宅購入

ニッケイ新聞 2012年3月3日付け

 「ユカリちゃんはね、日本が大好きだったの」。9年ぶりの祖国ブラジルで、遊園地ホピ・ハリの遊機具事故で亡くなった西村ユカリ・ガブリエラさん(14、三世)の母シウマラさん(38)は流暢な日本語でそう語ると、目を細め、うっすらと涙を浮かべた。
 1日午後、サンパウロ市の弁護士事務所で行なわれた記者会見では、ブラジルの大手メディアら50人を前に緊張しながらも、記者の質問に気丈に答えていたシウマラさん。会見後、同事務所の一室で記者を前にし、夫アルマンドさん(45、二世)と共に本紙取材に応じた。
 アルマンドさんは南マット・グロッソ州イタポラン市、シウマラさんはサンパウロ州グアルーリョス市出身だ。アルマンドさんは91年6月に一人で日本に渡り、1年3カ月働いた後帰伯。スーパーマーケットを開き8カ月ほど経営したが、結婚後、夫妻は93年に日本へ渡った。
 静岡県豊田町(現磐田市)に住み、アルマンドさんは派遣社員として溶接の仕事に就いた。
 経済危機後、2年前からトヨタの部品工場で生産ラインの作業員として働き、シウマラさんはデイセンターに勤務し、高齢者の介護の仕事をしている。35年のローンを組み、家を購入したのは5年前だった。
 ユカリさんは、日本で生まれ育ったが日本国籍はなかった。磐田市立豊田南中学校の二年生で、友達と自転車で学校に通っていたという。バレー部に所属し、勉強も熱心に取り組み、英語が特に好きだったそう。
 自宅の机はプリクラの写真で一面飾られ、教会や学校の友人がたくさんおり、その大半が日本人、ブラジル人の友達は一人だけだった。
 ユカリさんは、日常生活では日本語しか話さなかった。ポ語は簡単な会話は理解できても、読み書きはできなかったという。「日本語が8割、ポ語が2割だった。私達がポ語で話し掛けても日本語で答えて、私の日本語の発音を直していたくらい」とシウマラさん。ブラジル料理よりも日本食のほうが好きで、「彼女は完全に日本人でした」と思い出す。
 一家は浜松市にあるプロテスタントの教会に通う敬虔なキリスト教徒だ。ユカリさんは教会でダンスや演劇などに参加するなど、活発に活動したり、ピアノを弾くのも好きで、学校に行く前と帰った後、いつも練習していたという。
 夢はジャーナリストかコメディアンになることだった。「ユカリちゃんはいつも『東京に行く』と言っていたが、私は行ってほしくなかった。だから、いつもそれで冗談を言い合っていた」とシウマラさん。
 日本の生活を「安定していた」とアルマンドさん。シウマラさんも「自分の人生は日本にある」と口をそろえるが、「娘を失った今、彼女の思い出が詰まった日本に帰るのは精神的に耐えられない」とも。
 「日本は何もかも正しく機能している。長年住んでいるとそれに慣れてしまった」とシウマラさん。「私はブラジル人でブラジルの人々も大好きだが、起こった経緯やその後の遊園地の対応が許せないんです」。
 一家は今後もしばらく日本に定住しようとしていた。「帰るとすれば仕事を定年退職してから」と考えていた夫妻だが、訴訟を起こすことにした今、「今後どうするかわからない」と声を落とした。今となっては、7歳の妹ハンナ・アルマンダさんはポ語も日本語も不自由ないため、本格的に帰伯することも頭にあるようだ。

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