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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(1)=謎の過去持つ一世たち

史料館職員のルシア(Lucia Zalit Bukolts)さん

 「すべての歴史はある預言から始まりました」。ラトビア移民がパウリスタ延長線に1922年に創立したヴァルパ植民地で、ヤニス史料館(Museu Janis Edbergs)職員のルシア・ザリット・ブックォルツさん(55、ラトビア系二世)は、そんな神秘的な言葉で説明を始めた。28年に創立したバストス移住地にとって同地は、先輩格の植民地にして最寄りの登記所(出生・死亡届け)、製材所などがある便利な場所だった。32年バストス入植の古参阿部五郎さん(85、二世)に案内してもらい、同植民地を訪れた。
 バストスから見ると南東に45キロ、ツッパンの真南に位置する。阿部さんはヴァルパに向かう途中、「バストス移住地へ入る道路はここから始まったんです。先発隊は3カ月かけてここからバストスのセントロまでの道路を作った」とクワッタ街道を指差した。
 「昔はバストスから木材を積んだトラックが毎日、ヴァルパの製材所に来ていた。僕らはそのトラックに便乗して登記所に来た。バストスとはとても関係の深いところなんです」と懐かしそうに説明した。
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 「ここに来た移民男性の大半は第一次大戦(1914—18年)に招集された元兵士で、平和な生活を求めて移住してきた。私の祖父もその一人です」。ヤニス史料館のルシアさんは、そう説明を続けた。
 「祖父によれば、祖国での出来事を語ったらブラジルから強制送還されるのではないかとみんな恐れていた」という。だから祖国で何があったかは未だに良く分からない。「祖国で迫害された記憶が生々しかった。ここでも迫害されるんじゃないかと恐れて、一世らは外部の人に対して閉鎖的だった。子孫にもしゃべらない。だから長いこと移民史すらなかった」と振り返る。
 北欧バルト3国の一つ小国ラトビアはバルト海沿岸という地理ゆえに、数々の歴史的な悲哀を舐めてきた。ポ語で「レトニア(Letonia)」といい、日本移民史上でも度々話題にされてきた割に、隣国リトアニアと似た語感があるために昔からよく間違えられてきた。同史料館に展示されていた地図を見ると首都はRIGAなので、間違いなく日本語ではラトビアだ。
 阿部さんがバストスの地方紙『ふるさと通信』を発行していた96年頃に、一冊のヴァルパ移民史に偶然出会った。同植民地出身の元教師ミリア・ツッペスが書いて自費出版した『Depois do Crepusculo… um novo Alvorecer(黄昏から…新しい夜明け)』(初版79年)だ。
 阿部さんが著者に会いにいくと、「この本のことで話を聞きに来た人は貴方が初めてだ」と驚かれたという。本の概要を翻訳して解説を入れ、『レトニア移民の隆盛と衰退』という連載(以下「阿部記事」と略)を書いた。「それを『通信』で紹介したら大反響がありました」と目を細めた。
 この時点まで、詳しい移民史は書かれていなかったようだ。いったい彼らの祖国では何があったのか—謎めいた歴史を持つ植民地と日本移民のつながりを、「阿部記事」とルシアさんの証言を中心に探ってみた。(つづく、深沢正雪記者)

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