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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(2)=日露戦争の両側から移住

阿部五郎さん

 「北から赤い熊(ロシア)が来る。この国を出なさい」。緊張が高まっていた1922年当時、祖国の危機の再来を暗示する〃預言〃をポ語で語る者が現われた—との噂がラトビア中に広まっていた。1890年代にサンタカタリーナ州に入植したラトビア移民先駆組20家族ほどがいたがうまく行かず、その頃すでに帰国していた。ポ語の預言を先駆組が聞いて意味を理解し、「ブラジルこそが神が祝福した安住の地だ」となった。ルシアさんの母も先駆組子孫の一人だ。
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 不凍港を求めて極東を南下するロシアを食い止めたのが日露戦争だったが、ロシアは同じことを欧州側でも試み、ドイツ、ポーランドなど時の西欧列強がバルト三国を舞台にして押し返す戦争が繰返され、そのたびに小国は押しつぶされてきた。
 ラトビアがロシアの支配下だった第一次大戦時、ドイツとの間で首都リガは終始最前線に位置していた。17年のロシア革命でついに帝政が倒れた直後、ドイツ軍はロシア国民の厭戦気分を高めようと「リガ攻勢」を行なった。毒ガス弾11万6千発をぶち込んでロシア臨時政府軍の戦意を喪失させ4日間で攻略した。
 ルシアさんの祖父のようなロシア側兵士はもとより、どれほどの銃後の市民がこの無差別に損害を強いる戦いで傷つき、財産を失ったかは想像に余りある。この戦果に勢いをえたドイツ軍は東部戦線から大部隊を西部戦線に移動させるという転機となった戦いだ。
 ドイツはソビエトに屈辱的な条約を結ばせ、ラトビアを支配したが、翌年降伏して大戦は終結した。それを受け、ラトビアは19年に悲願の独立を遂げたが、ドイツ軍は駐留し続けた。英仏の後押しを受けた右派政権に対し、駐留ドイツ軍と結んだ親ドイツ派ラトビア人勢力も幅を利かし、さらにソビエトと結んだボリシェビキ勢力が19年1月にリガを攻略、同時にラトビア東部はポーランド・ソビエト戦争の舞台にもなるなど内乱状態に陥った。
 この当時のソビエトで活躍していた政治家や軍人には多くのラトビア人がいた。ラトビア共産党の創設者・赤軍諜報部の指導者ヤン・レンツマン、軍諜報機関の指導者にして強制収容所(ラーゲリ)の創設者ヤン・ベルジンなどたくさんいる。ロシアは優秀な現地人材を使ってラトビアを支配してきた。同族が合い争う目を被いたくなるような対立が日常的にあったに違いない。
 「宗教は麻薬」と罪悪視する赤軍からキリスト信徒はひどい迫害を受け、海外逃避熱が高まった。そんな時の〃預言〃だった。血なまぐさい追っ手から逃れるため、やむをえずとった数々の非合法な逃亡手段などがトラウマとなって、ヴァルパ植民地では長いこと祖国での歴史が語られなかったのだろう。
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 阿部さんは「以前(史料館)創立者のヤニスさんから聞いたが、かつて日露戦争(1904—5年)時に海軍で参戦したラトビア兵士も移住してきていた」と指摘する。
 日露戦争時にバルチック艦隊が日本への遠征のために集結したのが、奇しくもラトビア西部のリエパーヤ軍港だった。ロシアを負かした東洋の小国の存在は独立への悲願を抱くバルト三国の若者を大いに勇気づけたと言われている。
 『バストス二十五年史』(55年)によれば、すぐ隣のバストスには日露戦争に出征した元軍人が何人もいた。奉天大会戦に加わった坂口房吉(和歌山)や小橋宇三郎(岡山県)、乃木将軍麾下の旅順攻略に参加して負傷した大野清一郎(岐阜県)などだ。かつて砲弾を交えた両軍の兵士が、実は当地では平和のうちに隣り合って、教えあって生きていた。まさに〃預言〃通りの安住の地だったのかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)

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